2013年3月17日日曜日

「風化」と「変化」と

やはり2年と言う歳月は、一つの節目だったのかもしれない。あの大震災、津波、原発事故を取り巻く人々の感覚、感情、記憶のような事・・・。

使い古された言葉だが、非日常が、日常になってしまった。有り得ないことが普通のことと捉えられるようになってしまった。

2年の節目。「風化させてはならない」という言葉が躍っていた。なぜ、それが強く言われたか。風化が始まっていたからだ。

一つの事を一過性に捉えると必ず「風化」ということが問題にされる。
原発事故についてもそうだ。これは終わった事では無い。さまざま、現在進行形のことなのだ。除染のことから始まり、避難の事、賠償の事、帰れるか帰れないかということなどなど。

被災地にとって、当事者にとっての「風化」と、それ以外の地域の人たちの「風化」には、その意味合いが違ってくる。

風化、それは、即、忘れるということではないが、忘れたいと思っている人もいる。忘れないと次へ進めないという人もいる。
忘れない、決して忘れにないという人ももちろんいる。

すべてを「風化」という言葉で括るのは無理がある。

誰しも、時の経過とともに、考え方が変化する。同じ感覚、同じ気持ちを持ち続けるのは不可能に近い。
それは「一つの思い」をずっと持ち続け、考え続け、持続させていくということは、人間にとっては余りにも過酷な精神状態を要求するものであるから。

どっかでは、それから“逃れたい”という本能が目覚めてくるのかもしれないから。

ボクの中では「風化」という言葉も感情も存在しないと思っている。しかし、日々、それを思い、考えていることが“苦痛”を伴っていることでもあると、正直に“告白”する。違った世界に逃げ込みたいと思うこともある。
逃げるということは、卑怯なことだとわかっていても、“半分だけの当事者”“中途半端な当事者”である以上、時折頭をよぎる感覚・・・。
それを「否」とし「非」とせねばいけないとする自己矛盾との葛藤。

だから、「風化」を防ぐためには、新たな、次の作業が必要になるのかもしれない。そこには、例えば文学とか映画とか、音楽とか宗教とか、そして哲学とか、別の観点からのアプローチが必要になってくるのかもしれない。

原発はなぜ必要だったのか、今後も必要なものなのかどうか。
それを問い続けることも「風化」させないための大事な手段だ。

首相官邸前で、一時期は大きな盛り上がりを見せた「反原発集会」。今は、参加者も減ったという。
参加者だった人は言う。「いくら大きな声を上げても、結局何も変わらない。無意味なことをやっていたように思えるのです」と。

何万人の人が集まって、大きな声をあげても、何も変わらない。それは、当然あるべきこととして考えなくてはならないはずなのに。

“運動”の中にまで、「スピード」という感覚が持ち込まれてしまっているのか。なんでもすぐに「結果」を求めると言う。

すべてに早急な結果を求めることが、そもそも間違いなのだ。

安保反対闘争に参加した。安保阻止が叶うとは思っていなかった。巨大な権力と、それを取り巻く闇に対峙するには、何十万人もの人が声を上げても、血を流しても、犠牲を払っても、無理であろうことはわかっていた。わかっていたけど、そこに立っていたかった・・・。

反原発集会に対する人の心の変化。結果が出ないことへの無力感。それが、その運動に対する自分の心の変化であるのなら、最初から参加しなければいい。
「変化」が「風化」に繋がるのだから。

多くの日本人は“漠然とした不安”を抱えながらも、ほとんどが“日常”だった時間に戻っている。

廃墟の中に立ちすくみ、帰る場を持ち得ない人達は、皆、「風化」を恐れる。
その人たちに心を寄せる人たちも絶えない。

しかし・・・必然としてあるだろう「風化」と、本能としてある「変化」に、どう折り合いをつけるのか。

移ろいゆくのが人の世の定めならば・・・そんな、古典の一節に触れて自らを“安堵”させているわけにはいかないのだが・・・。

50キロ以上離れたところに暮らす者として、家を失った人、住むところを無くした人、そして、どんな事情であれ、多くの死者がいた、殺された牛たち・・・。置き去りにされた犬や猫・・・。その事への心の傾斜度が更に高めて行かねばならないと・・・。

3年目の春の語りかけてみる。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...