昨日は「塾」。延々と続くであろう“東北学”。歴史では無い、知識ではない。
生きている東北学。被災した東北の地にあって、幸い津波にも遇わず、原発事故で“強制避難”もさせられなかった郡山に住んでいる、横浜に転勤した塾生。
半分だけの当事者。しかし、どういう環境にあろうとも、あらためて「東北」を学び、「東北」を語ることの意義。さまざまな問題を「学」として捉えて考えて行くことの意義。
“小さな実験”の場だと考えているから。どういう“実験結果”、“結論”が出されるかはまだ先になると思うが。まだまだ知って欲しいと思うことが多々あるから。
毎日、「復興」という言葉が“横行”している。だから、敢えて彼らに問うてみた。復興とは何か、何を指すのか。復旧とは何か、何を指すのか。再生とは・・・。
3・11の前の状態に戻すことが、はたして復興なのかと。
現実の問題としては、被災者は皆「元に戻りたい」「元に戻してくれ」という。当然だ。それが“失われた日常”になってしまったのだから、あの“日常”を取り戻したいと思うだろう。誰しもそうだ。そこには“魂”の問題も包含されているし。
それをわかった上で、敢えて問うた。「復興」とは何かと。
考える。難しい。一言では語れない。言葉は少なかった。なぜか。考えれば考えるほど「復興」という言葉の意味や内容がわからなくなってくるから。
実態が捉えられず、そのあるべき姿も見えない「復興」。恐れずに言えば「全く不透明な言葉」なのだと。
それ以外に言葉を持ち得ない。言葉の不自由さなのだ。」
復興という言葉を錦の御旗のように言えば事足りるわけではない。しかし、それに代わる言葉が見いだせない。
首相から仮設の住民まで、皆、それしか言葉を見つけられないからだろう。
復興、復興の大合唱。言葉には“魂”がある。言霊とも言われるくらいだから。
復興という言葉に魂があれば、どこに行こうか戸惑っているのではないかと思う。
なぜ、水を差すようなことを書くのか。そこにある「まやかし」も見えてくるから。「不作為」をその言葉で包み込んでしまっているように見えるから。
それが、喫緊の“現実”なのか、将来を見据えて考えられている言葉なのか。
「実相」の見えない復興。その言葉に「酔う」、いや、それしか無い人達。それをよりどころにするしかないという現実の社会。
だから言ってみた。
「3・11の前から、すでにして被災地とされているところは過疎に傾斜していた。過疎の戻りつつあった。少子高齢化社会がそこにはあった。その全てが経済成長の“ひずみ”とまでは言わないものの。
元に戻すということは、過疎を中核とした社会構造に戻すということなのかと。
それでいいのかと。
時々は哲学についても語るはずだった塾。だから、経済哲学者の言葉も引用してみた。
「経済が成長すれば、人は幸せになれるのか。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられ、それは、汚染やストレスを招くだけだ。資源が有限である以上、無限の成長はあり得ない。
グローバル経済から脱却して、地域社会の自立を導くべきだ。地域社会の文化や生態系を破壊してきた成長ではなくて、もっとオリジナルな思考を求めるべきだ。つつましいが幸福と思える社会だ」。
3.11前にすでに言われていた経済哲学者の言説。今を射ぬいている。
海がろ過装置であるように、心の海にろ過装置が必要なんではないかとも聞いた。
「寺山修二の詩に似たのがあります」。一人が反応してきた。
今、被災地が抱える大きな課題。「住民合意」という言葉。それも隠れ蓑にされている。合意と納得。納得とは対話の中から生まれてくる。
合意という言葉が全面に押し出され、「納得」という、生きる上での“人知”が押しやられている。
「それは哲学的問題ですよね」。一人が反応してくる。
塾の本題はこれではなかった。入口論としても問題提起。言葉の不自由さ。
熱心にメモをとっていた彼らは、たぶん、もろもろ考えていてくれるのかもしれない。