昨日の話しの続きのようですが・・・。きょうもテレビは「東日本大震災」一足です。有難いことではあるのですが。さまざま“視点”の定まらない番組を見ていると、見ている側の頭が混乱してくるような・・・。
キャスターやタレントや学者や・・・。多くの人が被災地を訪れ語る。カメラは語る人達に向けられ、その姿を映す。
またまた意地悪のようだけど、取材される側がその目線でカメラを彼らに向けたらどんな光景があるのか。後ろにいる大勢のスタッフ、付き人・・・スタイリストまで。その巨大な集団はどう見えるのか。まさに「援軍来たり」と思えるのか。
閑話休題。
メディア論の本質から外れた、しかし、あるべき姿としてのメディア論。
それが取材であろうと、いや、取材だから尚更か。名刺をかざしてそこに行き、そこの人達と接し、話を聞いた。そこにさまざまな課題や問題があることを知った。
被災地に赴いたメディアの人達。被災者の、避難者の話を聞いた以上、そして書いたり、喋ったりした以上、すでにあなたはその人たちの人生に関わりを持ったことになる。
単なる“傍観者”としてではなく、そこで経験した、体験した、見聞きしたことが、あなたの中の“人間”としての感情に触れた以上、あなたは、そこにある現実を背負わなければならない。
客観性という大義名分のもとに、背負うことを回避してはならないのだ。
そこで取材した“事実”だけを伝えれば事足れりと言う物ではないと思う。
なぜ被災地の人たちが、それが、そこの首長であれ、民生委員であれ、普通の被災者であれ、取材に応じるのか。メディアと話すことによって、なにかが“解決”されるのではないかという期待感がある。それがあるからメディアの人間を受け入れる。
だから、単なる“事実”や“現状”として、伝えるだけでは、職務を果たしたとは言えない。
見た、知った、背負え。それは何もメディアについてだけでは無い。“視察”に行った政治家や官僚にも同じことがいえるはず。
背負う事を恐れるのか。大方の彼らは見るべきものを見ない。あえて見ようとしない。やむをえず“説明”はするが、話を聞こうとはしない。深く知ることを避ける。
東電幹部とて然りだ。
話はまたちょっと戻るが。テレビが伝える被災地の映像。その“狙った”映像。
例えば浪江町。必ず映る道路にはみ出したようなぺしゃんこの壊れた瓦屋根の家のカット。
夜の森公園の桜。奇跡の一本松・・・。東京から来たテレビには「目新しい」ものであり、廃墟の数々は「なんら変わっていない」という象徴としてフレームの中に収められる。
こっちの人間にしてみれば、言ってみれば、もはや見慣れた光景なのだ。
被災地は広い。いろんな形の立場の被災者がいる。どこもが同じところを狙っている。
別の被災地だってあるのだ。浪江には、いまだ“置き去り”にされた牛たちを飼育し、その生涯を看取ってあげようとしている牧場がある。かつて石破は国会質問でこの“牛“をとりあげたはず。
牛はどこにも登場しない。“被曝牛”は、原発事故の、弱いものからみた一つの縮図なのだと思うのだが。
避難で置き去りにされた犬や猫のその後はどうなったのだろう。もっと独自の視点があってもよさそうなのに。
被災者の声を聞けば、そのテレビをみればボクは泣く。新聞に書かれた被災者の声を読む度に、それが悲しみであっても、けなげに立ち向かおうとする人たちの語った言葉の記事でも泣く。
しかし、メディアの仕事は泣かせることだけでは無い。
もし、風化させまいとするのなら、次へ繋がるものにしていかねばならないはずなのだが。
3年目、メディアがどう、何を取り上げ、彼らが持っている「影響力」をどう発揮してくかに目を注ぐ。
大方のテレビ番組は全国ネットだ。風化されたのか、そうではないのか、一つの「実験」がありうる。ここ数日間の、そして明日にまたがる、震災、原発関連の報道番組がどれだけの視聴率をとったのかということ。
テレビを使ってでの意識調査にも成り得る。世論調査の大好きなマスコミだ。
政治に対してだけでは無く、視聴率を分析した意識調査というのはどうだろう。
ぜひ書いて貰いたい。
3年目も被災地に「寄り添う」つもりがあるのなら。それを伝え続ける気があるのなら。
やはりボクは“混乱”しているのかな。