2013年3月7日木曜日

「不の感覚」に覆われた国

この国の行先は、まさに不透明である。そういう「不」に始まって・・・。
被災地をとりまく、あらゆる事が「不明」のままである。

「3・11」、あの日の地震には、それが身の回りも“破壊”してくれたが、度々の余震は、その先がどうなるのだろうか、予測不可能だったが。
音信が不通になっているのが辛かった。

原発の爆発が伝えられて、それは一挙に「不安」を生じ、その「不安」はいまだ拭えないままだ。
テレビが伝える「不都合な真実」。政府や経産省、東電から発表される“情報”は、まさに不正確というか、

まさに「不可解」なロジックが並べられ、それが不安を煽る。
そして、それはやがて「不信」となった。
不信感を持った政府や当事者に対して思うこと。それはあらゆることが「不条理」という言葉に収斂されて行く。

不条理という言葉を何回書いただろうか。一昨年。書くたびに怒りの感情が増して行く。

そう、不安、不信、不条理というのは、おしなべて、人間の「感覚」の問題だからだ。

そこに客観的だとする、科学によるさまざまな評価が示されてくる。数字は客観的であり、ある意味”冷静“ではあるが、その科学に対しても「不」の感覚がつきまとった。

示される“数字”が、線量であれ、健康被害に関するものであれ、不信の感覚が根底にある以上、それを客観的に受け入れられないという行動基準。

例えば郡山から新潟へ、東京からも沖縄へ。自主避難をした人達はその行動基準を「皮膚感覚」とした。感覚として刻まれたものを否定するには科学はある意味、無力だったのではないかと。

ここまでで、どれだけ「不」という字を書いただろうか。「不」という字を書かねばならぬことは即ち「不幸」なのだということ。

安心、安全、本来は全く違う感覚であるにも関わらず、そえは並立された言葉となって危険と対峙することになる。

そして、その「不」に覆われた感覚は未だ、解決されていない。
感覚の前に科学は否定されたということか。

「不」の感覚は、当事者以外にも大きな影響を及ぼしている。例えば瓦礫処理の問題、例えば福島を忌避する感情、風評・・・。

それらは差別という感覚、阻害という事実にまで及んでいる。

「不」を取り巻く問題は、被災地だけではない。例えば・・・。
東京高裁が、選挙制度、一票の格差について「違憲」という判断を下した。最高裁の「違憲状態」から一歩進んだ。
多分、残りの14の裁判でも同じような判断が示されるだろう。選挙が無効とう判断は避けた。法律に基づいた、混乱回避のために裁判官の感覚。

かくて、今の国会議員は、その“資格”が、司法上は疑われると言う「身分不安定」な状態に置かれている。そのことを不作為だと、何もしなかった政治家が自己批判もどきを言っている。

「不の感覚」に覆われた日本。そこから脱却出来る訳も無く。

覚悟と諦観という“哲学”に逃げて、そこに意味が見出されるのか。

それが例え、どんなに過酷であろうとも、悲惨なものであろうとも、悲しいことであろうとも、“真実”だけを見ていたい、知りたいと思うのみにて。

あの日まであと4日。その日をどういう“覚悟”で迎えればいいのか。過ぎゆく歳月のみを嘆いても事は始まらないのだが。

0 件のコメント:

「オウム」という暴力装置、そして、天災。

2018年7月6日、僕は朝の食事の後新聞を読んでいた。 テレビのニュース速報がオウムの浅原彰晃の死刑執行を伝え、その後、次々と死刑囚の刑執行を伝え始めた。 やがてNHKは執行に立ち会うため拘置所に入る検察官の姿を流している。 いわば同時進行のものなのだ。 執行は事前に当局...