2013年12月20日金曜日

「最後の避難所」

原発事故後、県内外に多くの避難所が出来た。
いわゆるダンボールハウスの避難所。
埃、臭気、喧噪・・・。
そして食事の時間になるとただ黙って列をつくり、とりあえずの飢えをしのぐ行為。

およそ二カ月、通い詰めた避難所。ビッグパレット。そこで見たこと体験したことをグダグダ書くつもりは無い。一言。

そこは人間の尊厳が根こそぎ奪われてしまっていたような場所だった。ということ。

昨夜、友人と飲んだ。そして「今の東北」を話し合った。その実情を話し合った。疲労感に襲われるのだ。
家に帰り、沸かしてあった風呂に入る。狭い浴槽だが、その中に身を沈め、手足を伸ばせるだけ伸ばし、大きなため息をつきながら、風呂の快感に浸る・・。

そして目を閉じるとまた浮かんでくる避難所の光景。自衛隊の風呂が出来るまで、テントで作った風呂が出来るまで、避難所にいた人は風呂に入っていなかったということ。
そして「自衛隊さんのお風呂」を心待ちにしていたという事。


やがて、夏が来るころ、ほとんどの人は仮設や借り上げに住宅に移った。そんな中、双葉町の人たちの多く、1,400人の人たちは、川俣町に行き、そこから埼玉スーパーアリーナに行き、“落ち着いた先”が埼玉県の加須市にある騎西高校の空いた校舎だった。7,000人いた双葉町の住民のうちの1,400人。介護が必要な人も含めて、多くが高齢者。まさにほとんど仕切りの無い段ボールハウスで暮らすこと2年・・・。

もちろんそこに暮らす人たちは徐々に減っては行ったが。
町役場も一時はそこにあったが、いまはいわき市に移り、町長も替わったが。

その、双葉町の人たちが“住んで”いた最後の避難所の閉鎖が決まった。

最後まで残った人は6世帯7人。なんらかの介護を必要とする高齢者。今年中に退去が決まり、片づけを終えて来年早々には“閉鎖”となる。
埼玉県内の借り上げ住宅に移るという。

最後の避難所の閉鎖。それが、何かの終わりを指すものではない。
騎西高校、その名は永遠に双葉町の町史に残るのだろう。

その避難所にはいくつもの物語があった。物語が生まれた。物語、それは事実。

その暮らしぶり、そこに居る人同士の軋轢。近隣住民とのいさかいの数々。
それらをボクは列挙できない。

災害関連死というのがある。福島県内のそれは1605人になった。地震や津波による直接死者1603人を上回った。
関連死とは避難などによるストレスや環境の悪化、劣化が原因とされるもの。
さらには、避難に関連して自死を選択した人も含まれていないようだ。

避難所の中で死を迎えるという事。

なぜ騎西高校の避難所が仕切りを敢えて設けなかったのか。
皆の姿が確認できるからだと、そこに居る人は言っていた。

敢えてNHKにお願いしたい。すでにその避難所の事は番組にし、実情を伝えていたのだから。足りない映像や声があったら民放の協力も得ればいい。
そこは一時はマスコミの殺到していた場所でもあったのだから。

最後の7人が“退去”する姿を捉え、そこに居た人達の声を拾い、避難所というものがどういうものだったのかを、永遠の記録として、そう、「最後の避難所」という番組タイトルで作って欲しいのだ。

そこで、人々がどんな暮らしをしていたかを、3年をやがて迎える時に放送してほしいのだ。
あの避難所に取材者として、一度でも足を踏み入れた人には、その後を伝える義務があると思うから。

そこには、“コミュニティーがあった”という。コミュニティーという言葉を使いながら、それは何かという答えの無い自問の中で。
地域社会、共同社会・・・。

何もカタカナ語を使うことはないとも思うが、それが分かり易いのなら敢えて使う。

コミュニティーとはもともとあったものなのか。同じ環境、境遇にあって、苦楽を共にして、時間と空間を共有して、はじめてできるものなのか。

避難所を出た人達が、コミュニティーなるものをどう作り上げていくのか。

それぞれの人が、それぞれに散っていったあとのコミュニティーとは。

避難所は閉鎖されても、故郷には絶対帰れないという事実は厳然として残っている。

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