2013年12月3日火曜日

「言」と「語」への限りない失望

新語・流行語大賞にテレビは浮かれている。ばかばかしいの一言に尽きるの感。

テレビが生み出した、作り出した言葉が、その年の流行語とされ、話題をさらうという事。違和感が大だ。

「じぇじぇじぇ」。岩手県久慈市小袖地区の方言。あまちゃんというドラマで使われ、いや、たまたま発掘され、テレビの視聴率と相まって全国に伝播する。
方言が全国に伝播する。結構なことだ。でも方言は「言葉遊び」の道具ではない。

「3・11」後、しばらく準備を重ねて「東北学」という話をくどいようにしてきた。まだするつもりだ。
その中で当然「方言」についても話をした。その「方言」の由来も出来るだけ調べ、「方言」が持つ意味を考え、かつて「方言」を放棄しようとさえした東北人の心理を考え、「方言」が、その復活が「復興」の一助となるかもしれないとも話した。

「方言」とは、まさに、その地方の言葉である。その土地の臭い、空気の中で生まれた言葉である。ある時は征服者によって持ち込まれた言葉でもあった。

「じぇじぇ」は長崎県の一部にも存在する言葉である。言葉の分布は、その民の成り立ちにも関係してくる。

全国区になる「じぇじぇじぇ」。それを好んで、はやり言葉として使う都の人たちは、そう流行に敏感な、そして、何よりも「同調意識」を持とうとする、大勢依存体質から抜け切れない人たちの、“遊び道具”とも思える。

3・11後、地域コミュニティーなる言葉が“流行り”、たしかにそれは機能した。そのコミュニティーを支えていたのは「方言」。
東京の人たちが流行り言葉として使う方言。その深層心理には、「変わった言葉を使う」という、どこか蔑視の心理があるようにも見える。

著名なジャーナリストさえ加わった選考員会。そんなことまでは考えてもいないだろう。

「うじゃうじゃする」という表現がある。もちろん方言。悪寒がするという意味。被災地支援で向かった医師は、その土地の方言を習得しようとした。それでないと患者の症状や訴えを理解できないから。コミュニケーションが取れないから。地方自治体の応援職員もそうだった。そうしないと「相談」に乗れないから。

「じぇじぇじぇ」を連発しながら、東京の人たちは、東北の何を思うのだろうか。

「倍返し」。もっとくだらない。視聴率を取れた、取れた理由は、サラリーマンの閉塞感とそれを打破しようとする潜在意識の代弁として人気があがったのだろうが。所詮はテレビドラマが生み出したもの。
「今でしょ」。CMが生み出したもの。

「お・も・て・な・し」。言葉の持つ意味をはき違えた軽薄な使い方。まして何で合掌がつくのだ。

こんな風潮にうつつをぬかしているから、テレビはお祭りのように取り上げるから、だんだん日本語は衰退していくのだ。

天野祐吉さんなら、どう書いただろうかとも思う。言葉に敏感だった彼なら。

朝日新聞に天声人語というコラムがある。風刺に富み、世相を切り取り、今を切るコラムだと思っていた。なにせ“教材”にまで浸透しているという。
今朝のこのコラムは何だ。書くべきこと、取り上げるべきことは「彗星」の話ではない。
紙面が問題にしている秘密保護法をめぐるさまざまな動きではないのか。とてもじゃないが「天の声」には聞こえない。彗星は天にあるものだといなされてしまえばそれまでだが。

あの朝日新聞だって目をそらせようとしているの感。全紙一丸では決してないということ。

そして石破の「言語力」。デモをテロと置き換えるその認識力。国会で、さすがに森雅子も菅官房長官もデモはテロではないと言った。ならば石破の言う民主主義とは何か。それを各人に問い、政府・与党の統一した解釈、定義、認識を示して欲しい。でも、野党はそういう発想にはならない。稚拙な質問に、テロとデモだけに終始している。

各人各様の民主主義。漠然とした民主主義。

もし「じぇじぇじぇ」が東北に目を向けた、それを理解するための新語・流行語だというなら、楽天の嶋が言った「見せましょう東北の底力を。見せましょう野球の底力を」。球場の観客が皆泣いたあの言葉こそ、今年の言葉だと思うのだが。

東北の津波で流された町。町中が流された地区。そこにあった方言は消えるという。人がいなくなるから。それに危機感を持った役場や地元の有志が、「方言事典」を作ろうとしている。消してはならないものとして。

一過性のテレビに流されて欲しくないな・・・。

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