2013年12月5日木曜日

「喪中葉書」の舞い込む季節

またこの季節がやってきた。嫌な季節。毎日のように届く喪中葉書。
一枚は大学時代の同級生だった。

慌てて仲の良かった同級生に消息を聞く。癌だったとか。ストレスなるものが癌を早めていたとか。90歳を越える病床の両親、痴呆を患ってしまった奥さん。その介護、看病で疲れきっていたという。

一枚は東京の我が家に下宿していて、結婚もとっくにし、子供も大きくなったであろう新潟に住む子。そうだ、子と言っても大学生二人の母親。彼女の姉も我が家に下宿していた。

新潟県加茂市の開業医の娘さん。彼女のお母さんからはいろいろなことを教わった。
ご主人が亡くなった1年後の命日の日、一周忌の日にそれを知らせてくれた。1年前に連絡すれば弔問に駆け付けて来ることになるだろう。それでは迷惑をかける。1年待った・・・。

そして、「3・11」。新潟地震を経験しているそのお母さんは、物流が復活すると同時に、多くの“支援”を送ってくれた。
「人との付き合い方はかくあるべし」。それを何かにつけて学ばせて貰っていたように思う。気遣いのあるべき姿も。
次女の訃報を知り、電話で話した。84歳。多少からだに“不具合”はあるものの、いたってお元気だった。

届いた喪中葉書。30枚くらいか。多くが親御さんのこと。兄弟のこと。

葉書一枚一枚を「つつしみて」読む・・・。


そして今年、多くの「文化人」が亡くなった。「知識人」がなくなった。これでもかといった具合に。戦争を知っている世代が。
それを書き、語れる人がいなくなるという現実。無力感すら伴う。

書きながら思いつくままにでも、作家の山崎豊子。彼女なりの視点で戦後をえぐった。小説という手法で。
漫画家のやなせたかし。漫画という手法を使い、限りなく”平和“の必要性を訴えていた。自分の顔をちぎって飢えた子どもたちに食糧として分け与えるアンパンマン。

広告評論家、コラムニストの天野祐吉。普通の人の感覚で、世相をえぐり、政治を批判し、経済成長に名を借りた原発をこよなく嫌った。
作詞家の岩谷時子。彼女の作詞は、戦後の世相を歌に託して、その時代を見事に表現していた。
辻井喬、本名堤清二。西武グループの総帥、衆議院議長も務めた康次郎の子でありながら、限りなく反権力であり、書かれた小説や詩に酔った・・・。

文化人ではないが、東京電力福島第一発電所の所長だった吉田昌男。語って欲し事がもっとあった。彼が健在であれば「廃炉」作業にも影響はあっただろうし、国との問題も、もっと市民目線であったかもしれないとも思う。

そしてもう一人。橋本 武という学校の先生。
戦後、黒塗りされた教科書に嫌気がさし、中勘助の小説「銀の匙」を3年間かけて読み、読ませるという“掘り下げること”の大事さを実践した先生。

彼らは、彼女たちは、今の、いや昨日今日の「国会」、秘密保護法で揺れるこの国の姿を見ていたらどう思っただろうか。
何を語ったのだろうか。痛恨の極みと言っていいのかどうか。知らないでいてくれてよかったような気もするし、“予感”していたかもしれないが。

戦争をかろうじてでも知る世代。まだ活躍中の人も多い。
樺太の悲劇を“終わらざる夏”という小説に書いた浅田次郎。映画監督の山田太一、そしてなんと言っても、アニメ映画「風立ちぬ」の監督宮崎駿。

彼らを行動に駆り立てているものは何か。

特定秘密保護法案は、明日には成立する。それがどんな手段を取られるにしても。どんなに反対の意見が国会議事堂を取り巻いても。

少なくとも5割の日本人は、「喪中葉書」を書かねばならない。日本の民主主義は死んだと。議会制民主主義は幻想にしか過ぎなかったと。
政治は死んだと。
民の声は消し去られたと。

そう、そして、その喪中葉書は、国会議員に対して送らねばならない。安倍官邸に対して送らねばならない。

そして、その「死」を忘れることなく、一周忌のお知らせ、三回忌のお知らせとして、未来に対する遺言として送り続けなければならないのかも。

「終わり」を「始まり」とするためにも。

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