2011年12月6日火曜日

もはや埋め難き溝

震災で壊れた道路脇の溝のことではない。壊れた溝や側溝は工事すれば治る。日本人の心の中や頭脳の中に生まれてしまった「溝」。もはや埋め難きものとなっているような気がして。その溝を埋めないと復旧も再生もあり得ないと思うのだが。

国民の、特に被災者、原発被害者。そこに生まれた政府や行政に対する不信。それは今、なお増幅の一歩をたどっているような。

顕著なのは原発事故への対応。政府に対する不信を作った「犯人」。それは数限りなく繰り返された枝野官房長官の記者会見。「ただちに」「いまのところ」発言。東電と保安院の曖昧さ極まれりの記者会見。

テレビの映像が原発の爆発を伝えているのに、その内容や意味を伝えないどころか、見えないものは隠そうとする姿勢。

枝野に百歩譲ろう。「いまのところ健康に影響は及ぼさない」。それはいわゆる外部被曝のことであって、多分、彼の頭の中には内部被曝という考えは毛頭なかったのであろう。

とにかく、政府は行政は東電は、事実を過小評価し、ことさら安全を強調した。少なくとも、あの一か月の彼らの発言が真実を伝えているものだったら、今になっての土壌汚染の拡大、内部被曝への恐怖、食物汚染。そんなものは無かったはずだ。

いわゆる専門家という輩を多数集めた中での政府の見解。事実を隠そうとしたのか、誰も何もわからなかったのか。

これは中央政府だけではない。県という地方自治の要に対しても当てはまる。事実や現実を直視しない。知見が全く無い。

放射能がまき散らされた県内からの「脱出者」は6万人。県は新規の避難者は認めないという。

県民の大多数は言う。「国も県も信用できない」と。避難した人も留まった人も、「自己判断による自己防衛」しか手段を持たない。
国民・県民と国・行政の間に出来た溝。修復は不可能に近い。しかし、溝をどうにかして産めない限り、誰も救われないのだ。

旧福島市内の米は全部出荷停止とされた。被害はより拡大している。

別の溝も出来た。以前からあったといえばあったのだが、それを決定的にした。既存メディアとフリーないしはネットメディアとの、まるで敵同士のような対峙。既存メディアは真実を伝えない。隠すとネットは言う。ネットではデマがつぶやかれる。今もつづくこの受け手不在の自己主張。

かなり以前にも書いたが、テレビは40キロ圏内に入って取材することを放棄した。放棄させられた。地元の記者やカメラマンはほぞを噛んだ。しかし「中央」の命に背けない。それを聞いた時、亭主は多分書いた。「テレビは終わった」と。

内情はともかく、一般の市民は、県民は、やはりテレビを唯一の接触媒体と見ている。ネットで情報収集したり、リテラシー能力を働かせることが出来ない人が数多いのだから。ネット至上主義と声高に言う人はわかった欲しい。SNSも含め、その環境が整備されている人は国民全部ではないことを。使えない人たちが数多くいることを。

この情報メディアの溝もたぶん埋まらないだろう。高度に成長した情報化社会が達成されたと勘違いしている人たちが多い現代社会なのだから。

そして・・・・。県外に避難した人と避難しなかった人との間にも溝が深まる。

同じコミュニティーの中で暮らしていた人たちの間にも溝が生じてきている。

そして犯意が全く存在しない者同士で、被害者と加害者という分け方がされ、日本人同士に大きな溝が生まれている。生まれてしまった。

どうやって溝を埋めるのか・・・。カオスの名はカオス。混沌の中を生きる・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...