2012年2月2日木曜日

川内村は苦悩する

きょうも寒いです。昨夜の雪のせいか道路は渋滞。家から事務所まで1時間・・・。
去年の3月11日は30分で帰れたのに。

もう寒いのに飽きました。そんなこというと怒られそうだけど。飽きとの格闘中というところか。

水道管凍結の話があちこちから伝わってきます。飲み水は確保出来ても、風呂に入れないとかも。

川内村は村長が「帰村宣言」を出した。4月までにそこそこの除染をして4月1日からは村で役場機能を再開させると。
「2~3年かけて戻ってもらえれば・・・」村長の弁。

きのう、ビグパレット脇の仮設に住んでいる川内のばあちゃんに早速電話した。
「どうするんだい?帰るのかい?」と。ばあちゃんはよどみなくこたえる。
「帰らない」と。

今、川内村には200人くらいが住んでいるという。「裸のフクシマ」という本を書いた鐸木能光さんも住んでいる。そして発信している。

「あの本も返さなくちゃいけないし」。ばあちゃん。そう鐸木さんの本は貸したままだった。道路渋滞で仮設行きはきょうは断念。水道管は大丈夫らしい。

「帰ったって何もないし、生活が不便だと思うんだ。それにじいちゃんを抱えてるし」。そう、じいちゃんは医者がいないとだめ。酸素吸入つけたままの人だから。その身でよくもあの段ボールハウスの中に数カ月いたもんだと今でも思う。時々入院してたけど。

「買い物行くんだってどうなるかわからないし・・」。と、ばあちゃん。どうも郡山生活に慣れてしまったみたい。買い物はスーパー近いし、ビッグパレットの周辺にはいろんな施設もあるし・・。

ばあちゃん、ひ孫までいる。一家を挙げての帰村。なにかと難問だらけ。

戻れる人、戻れない人。さまざまなのです。遠藤村長の「自主判断」という言葉を捉えて「無責任」と批判する新聞記事もありましたが、それこそ無責任だと。

川内村の中心部の放射線量は平均して郡山よりも低いのです。全村避難で荒れ果ててしまっているけれど。村は昔日の面影を残しているかどうかはわからないけど。

帰れる人は帰る。誰かが先鞭をつけないと後に続く人は出てこない。画一的にひとからげで物事は進まない。

帰ろうとする人を“支援”するような報道をするのもメディアの役目じゃないのかと。なんでも批判はもはやいらない。志を削ぐだけ・・・。

ばあちゃんとは一つの約束がある。「川内に戻ったら、遊びに行くこと」。ばあちゃんが帰る気になるまで待ちますよ。

かつて川内村にはよく行った。友人の画家がアトリエと住居を構えていたから。
あばら家だった。彼の名前は斉藤隆。面妖はキッカイ(笑)。仙人もどき。描く絵も奇怪。

自宅は郡山の近くの舞木というところ。そこに彼が居る時には変な絵描きがたまっていた。郡山の猪熊克芳。会津の長谷川雄一。みんな抽象画ばかり。
酒ばかり飲み、冬でも裸足で家の中を駆け回っていた。草野心平の秘書をやっていた”ナニワ”サンという女史も我が家のようにふるまっていた。

放浪の画家。震災前に川内を引き払い、天栄村の方に庵を構えているとか。
彼のアトリエがあったあの家はどうなったのか・・・。

絵描きは亭主に言った。「ここは浄土みたいなとこなんだよ」と。彼の絵心をかきたてた川内・・・。

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