2012年2月21日火曜日

村が壊れていく・・・

昔、政治記者をやっていた頃、「村」と言えば自民党の派閥の事だった。もちろん地図にも載っていない「ムラ」。その村も、今は、その名としては存在しない。
多くの「ムラオサ」はいなくなったし。今は「オコチャマのグループ」。

自民党の「村社会」が顕在だったころ、公言はされないが、密かに「村」が作られていた。「原子力村」。その村は今も存在しているのか。在るように思える。
その村の掟。「隠す、騙す」。そして“カネ”をばらまく・・・。

原子力村の一つの拠点が崩壊したというのに、まだその村は掟を守りながら生き延びている・・。この「村」も地図のどこにも存在しない。

原発事故後、地図にある、行政区画としてある二つの村に目が行く。心が行く。気になる。もちろん事故以前にも行ったことがある村だけど。

飯舘村と川内村。

計画的避難区域と“強制”避難させられた村。飯舘の村長は、ニューヨークでも「までいのこころ」を説いていた。文明からちょっと身を引いて、身の周りを考えよう。自然とともに生きる生活を再認識しようと。

震災、原発事故直後に出版された「までいの力」という本。その巻末に飯舘村憲章という五カ条が記されている。簡単な平易な文章で。
船中八策、それもよし。しかし、その前に、飯舘憲章だな。飯舘五策。

全村避難。避難している人たちの多くに帰村願望が強いという。どぶろく特区に指定された飯舘村に買いにいったこと、相馬に抜ける時に通った飯舘。
とにかく美しい村だった。放射線量はもちろん郡山より高い。

突然、思い出す。誰かが言っていた言葉を。
「美しい村など、はじめからあったわけではない。美しく生きようとする村人たちがいて、村ははじめて美しくなった」。
飯舘村は原発、東電からいっさいカネを貰っていない。恩恵に浴してない。

飯舘村を壊したくない。

川内村。村長は帰村宣言を出した。帰村に向けて役場の再興がはじまっている。すでにして村には200人ほどの人が住んでいる。
帰村に向けてマスコミが避難している村民に問う。「除染がされないと帰らない」と答える。マスコミはそれを報道する。

除染。原発事故以来、川内村の放射線量は富岡町に隣接した地域以外は低い。避難してきた郡山市よりかなり低い。

さかのぼれば、30キロという同心円のなせること。帰村に向けての村民の動きは鈍い。なぜか。帰還しない大きな原因は、皮肉にも、避難者の生活を守るための原子力損害賠償の存在だという。 原発事故による避難者には、精神的損害に対する賠償として東京電力から1人当たり月10万円が支払われているが、避難先から村に戻れば受け取れなくなる。その他にも就労不能損害補償とかもある。だから、戻らない、働かない。

川内村に住む作家は指摘する。この村は「カネでずぶずぶになっている」と。

同心円で避難させた国が、その「非」の贖罪からか、東電への賠償を強く強いたとも思えるような。

「国と電力会社によって、この村は“破壊”されていく」。作家はそうも指摘する。

賠償金の“出元”はあえて問わない。賠償金を求める村民を非難する気もない。
誰もが、そうなる可能性を秘めているのだから。

あの避難所暮らしの数か月を見てきた者として、村民には、いくら賠償しても、しきれないくらい。その他の町村とて同様。

川内村。綺麗な村だった。何回も行った。何回も通った。「普通の村」の戻るのはもはや無理なのか。本当に壊れていってしまうのか。 
少なくとも農地は、毎年「うねらす」ことをしないと、その耕作能力を失っていくといわれている・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...