2014年4月2日水曜日

「科学に対する誠実さ、謙虚さの欠如」なんだってさ

「3・11」以降、普通の国民が、なんとなく気付いていることがある。
権威というものに対する疑念、不信。

そして「科学」というものにたいする、なんとなしの不信。いや、もっと言えば抵抗か。

「3・11」後、引き合いに出され、再認識させられたのが科学者寺田寅彦の残した言葉の数々だった。
災害は忘れたころにやってくるーから始まって。

誠実さを装いながら、放射能の不安を駆り立て、福島県人を「バカ呼ばわり」するような科学者、原子力の“専門家”がいた。
およそ謙虚さのかけらすら見えない原子力“専門家”という、肩書を持つ科学者がいた。

ネットからはじまって既存メディアまで、その人たちの言を取り上げ、それらを「良し」としていた。

「3・11」以降、科学者と言うのが信用出来なくなっていた。なんで、勝手に相反することを言い合い、誹謗し、中傷し合うのか。

とかく人間というのは「権威」に弱い。

「3・11」後、その詩を噛みしめていた。茨木のり子の「倚りかからず」

もはや、できあいの思想には倚りかかりたくない 
もはや、できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや、できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや、いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて、心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目、じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば、それは、椅子の背もたれだけ

何回も使わせてもらったがまた書き写す。

「科学に対する誠実さ、謙虚さの欠如」。STAP細胞問題で、理化学研究所が小保方晴子に対して切って捨てたように言った言葉。

理化学研究所の幹部の人たちは、すべからく「誠実さと謙虚さ」を持っていたのかと問い返したい。

マスコミの論調も、どこか二の足を踏んだように隔靴掻痒。マスコミはまたもや「専門家」を登場させ、それぞれの“見解”を求める。

すっきり伝わるものが無い。「専門家」に代弁してもらっているような。

専門的な科学の話であり、その中での“不祥事”とでもいえること。まなじっかの専門家の話よりも、ワイドショーのネタになり、ど素人が戸惑いながらも喋っていることの方が正鵠を得ているのかもしれない。学閥や門閥。先輩後輩。
なにやらわからぬ人間関係で成り立っているような「象牙の塔」の内部。

原子力発電所は原子力工学の専門家が作れても、事故防止策は作れず、まして爆発したあとはお手上げの専門家。

寺田寅彦はこんなことも言っていたそうだ。
「科学者になるには自然を恋人にしなければならない。自然はその恋人にだけ真心を打ち明ける」って。

理化学研究所。通称理研。渋沢栄一が作ったもの。そして、その理研は原爆製造に当たろうとする。仁科博士の頃か。

福島県石川町に、ウラン鉱脈があるということで研究者が押しかけていた。戦争中。結局は「使い物にならない」ということで無しになったが。

石川町には今でもあるのだろうか。町の入口に。「ようこそ水晶の町へ」。
水晶なんか無いさ、出ないよ。あれは昔、ウランのことを言ったんだ。
25年前、町の古老から聞かされていた。

組織。いかに科学文明が進歩しようと、便利なものが出来ようとも、人間の本質は笑えるくらい変わっていない。
組織に踊らされる人間模様をSTAP細胞問題に見る。

笑えるくらい変わっていない。東京タワーという小説の中でリリーフランキーが書いていたこと。その本も10年前に書かれたもの。

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