2014年4月22日火曜日

「復興」とは「創造」なのかもしれない

3・11以降、言われ続けている復興。
その復興という言葉に、考えに、いささかの“抵抗感”を持ってきた。
いまだもって「復興」ということの意味がわからない。
元に戻すのは復旧。復興とは、さらに奮い起こすこと。

高齢化が進み、たぶん過疎化がすすみ、産業の形態も、流通の形態も変わってくる。人口は確実に減る。
巨大防潮堤のことだけではない。元あった町や村を復元させることが復興なのか。
それまで持っていた価値観に戻る、戻れるということが復興なのか。

復興とは被災地だけのことではない。この国全体、いや地球規模で言えること。

ま、それはさておいても・・・。

廃炉まで40年かかる。30年は帰れない。そんな人たちがいること。その人たちの復興とは何を指すのか。
作付面積が減る。漁獲量も減る。人々の生き方も変わってくる。そんな中で言われる「復興」って何?

こんなことを思ってみたりする。大熊の住民集会であった発言を聞いて。
その人は、ご婦人だったが、64歳の。議論に皆が疲れだしたころ。静かに口を開いた。

「もう戻るってことを言うのはやめましょうよ。戻れないのはわかっているのだから。それよりも、新しい町を作りましょうよ。町の人たちが一緒に暮らせる町を。40年間だけの町でもいいから」。

そんな言葉だった。そして大熊町では、線量の低い地域に新しい町を作ろうと計画し始めたともいう。

宮城県でもコンパクトシティーという構想が提案されている。
さまざま、「新たに作り始める」ということだ。

“復興”とは“創造”だということ。創造の前に「新たな」という言葉をいれてもいい。
取りもどすのではなく、創造するのだ。

例えは異端かもしれないが・・・。

お寺がいい例だ。どこも経営難。
地縁、血縁が無くなり多分「檀家制度」を維持するのは無理だ。檀家が無くなる。寺の崩壊につながる。檀家に支えられているという閉鎖社会でいいのか。
寺は人と人のつながりの場。その役割を果たすためには社会貢献も必要だ。
だから僧侶も、大学に行って、経営学や哲学を学ぶことが必要。そして「人のこころの受け皿になれる」お寺に生まれ変わらなければ。

3・11後、瓦礫の中をひたすら歩き、海に頭を下げていた坊さんがいた。

多分日蓮宗の坊主だったと思う。日蓮はレジスタンスの人。鎌倉幕府に楯突いて追いやられ、一人諸国を歩き回っていた人。

新たな寺のあり方が必要になってきている。
檀家制度では寺は維持できないはず。

郡山でも「復興」「復興」ということで“元の姿を取り戻すべきだ”と言う声がある。
元に戻すべき、取り戻すべき伝統や文化はあるのか。あったのか。

新たな文化や伝統を今、作り直してもいいのではないか。食文化にしても伝統行事といわれるものにしても。
脱皮だよ、脱皮。

旧態依然としか“殻”から抜け出し、将来を見越した、この国の姿に見合ったものを想像していくべきなんじゃないかな。

「3・11」は、この国の、いや、外国にとっても、大きなターニングポイントではなかったのかと思う。文明の転換期だったのだと。

「復興」という文字や言葉が、別の言葉や表現に置き換えられて言われ始めたような気がする。

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