2011年5月3日火曜日

法の下で・・・

今日は憲法記念日。護憲派、改憲派、それぞれがどっかで何かをやっているのか・・。どうでもいいような気がしている。

大震災後初めて、新聞紙面の一面はオサマビンラディンンの記事で埋め尽くされた。震災が片隅に押しやられたとは言わないが。

ガキじみたとことを言う気はないが、法の下では皆平等で、自由であると教えられてきた。そうあるべきだと思っている。

今の日本国憲法に触れた中学生の頃から、憲法が大好きだった。特に前文が好きだった。名文だと思っている。

日本国民は憲法を守っている。遵守している。第九条の解釈をめぐって以外は。

この国は、政府は、憲法違反を犯している。かねがねそう言って来た。言い続けてきた。それはどこか。第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。

いま、震災以降、原発事故以降、この権利は失われた。我々は守って来た。憲法を。その他の法律を。しかし、法は国民を守ってくれていない。

かつて自衛隊を憲法違反だと声高に言った人達が大勢いた。政治家も言論人も。自衛隊員は肩身の狭い思いをしてきた。

原発を含め、今、被災地で国民を守っているのはだれか。自衛隊員である。憲法違反と言われ続けた人達である。

憲法は基本的人権をはじめとしてさまざまな国民の権利を保障するとしている。その権利が国家によって失われている。なぜ法律家は声を上げないのか。

被災地の住民は、既存の法律を盾に、「できません」「そうなっているんです」。法律、法律の連発によって、たとえばハローワークに言っても雇用ままならず、強制的に退避させられた会社や家の中に置いてきた書類一つや許可証一枚が無いため、新しい生活を立て直そうとしても法律を口にする人達がそれを許さない。

かつて超法規的措置を行い、人命は何よりも重いと言って称賛を浴びた内閣総理大臣がいた。

大震災、原発事故。すべて「想定外」だという。たしかにそうだった。ならばそれの即した想定外の法律の適用や解釈、運用があって然るべき。

法律とはすべて「想定内」で出来あがったもの。放射線、放射能にかかわる法律や基準にしても然り。暫定という腰だめの無責任な法律や基準が指標として使われ、ろくに議論も検証もしないまま、学者と称する人たちが勝手なことを言い合い。想定外を言うなら、想定外の法律を作ろう。

知る権利だとか、言論の自由だとか。憲法をたてにしてそれらを言うなら、その前に、まず「人間」であれと。

きょうの新聞に俳句が紹介されていた。
「明日も喋ろう 弔旗が風に鳴るように」。

だからボクは多分、明日も、明後日も、喋り続ける。このページで。

かつて五木寛之が書いた本の題名。

「デラシネの旗の下で」。

デラシネとはフランス語で、根無し草、故郷を喪失した人のことを言う。

デラシネになってしまった人々のなんと多い事か。

こどもたちがこの五月の陽光の下で遊べなくなってしまった福島県。親は子供を思う。やっとの思いで連れていった東京ディズニーランド。車はいわきナンバー。車の横腹に書かれたという。「福島へ帰れ」と。

基本的人権はおろか生存権まで奪われかねないような、さまざまな憲法違反。それを止める手立てはない。それを黙認している国家、政府。
その場しのぎのように「風評はやめましょう」。そんなことをぼそっと記者会見で喋って免罪符にしようとしているとしか見えない。

法治国家ニッポン、民主主義国家ニッポン。法は不平等である。法はデラシネの民を守らない。

デラシネの旗が汚染された土壌の上に立っている。五月の風を受けて悲しみの声を鳴らしながらたなびいている・・・。

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