2012年9月9日日曜日

「身の程をわきまえる」ということ

京都の竜安寺のつくばいに下のような“言葉”が彫られています。真中の四角は口です。
時計周りに読めば「吾、唯、足るを知る」。


「足るを知る」。この言葉をどう読みとるかはいく様にもあるかもしれません。何が足りているのかは書いてありませんから。

去年の塾で、この「言葉」を引き合いに出して、文明災ともいえる原発事故や、被災者のことについて話し合いました。

この言葉を「身の丈」「身の程しらず」という言葉に置き換えてみます。

映画“無人地帯”の余韻がまだ残っています。その映画のナレーションの一節。
「日本は農民の国だった。だが、今は違う。近代日本は西洋文明を受け入れ、世界は人間のためにだけ存在すると思った。そして、原子力を選び、今は扱い切れていない。もはや農民の国ではない・・・」。そんなフレーズ。

原子力発電というのは、経済成長のための、豊かさを思い求めた故の帰結として生まれた人災。なんども言いますが。
身の丈にあっていない、身の程知らずの生活を求めた結果なのかと。

山口県に祝島という人口500人ほどの島があります。かつてその島の、海を挟んだ4キロ先の本州に原発の計画がもちあがりました。漁業補償金はとりあえず10億円。島民は、それを拒否し、建設計画はとん挫しているといいます。
多くの島民の考え方、海と山があれば生きていける。でも、その環境を失うことがあったら島はどうにもならない。

これ以上豊かになって失うことがあれとすれば今のままがいい。身の丈にあった暮らしを選んだ。
「人間も動植物と同じ。自然の中の一つ。身の程をわきまえて暮らすのがいい」。その島で養豚をしている人の言葉。

海と山、それに農地。それがことごとく奪われたような福島、相双地区。映画の中で、そこの住民、いや住民だった人が静かに語っていました。
「昔はとにかく貧しくてな、この地区は。そこへ、ほら、あの、堤なんとかっていう人が来て、高い値段で土地を買いあさってさ、そこに原発建てちまった・・・」。

堤なんとか、そう西武グループの総帥。そこが土地を買占め、正力松太郎の政治力は加わって、不毛の土地は豊かになった。雇用は生まれた。出稼ぎに行かなくてもよくなった。
電源三法によって多額の交付金が落とされ、東電からは寄付金がばらまかれた・・・。

川内村に住み、自然と暮らし、モリアオガエルの生態を見ながら、原発にも常に留意し、調べ続けてきた作家、鐸木能光、3・11後に書いた「裸のフクシマ」の著者。彼は言う。「シャブ漬けにされてしまった」と。そして、賠償問題などで、再びシャブ漬けが起きていると指摘する。

彼の言葉を借りるなら、シャブ漬けにされたのは、身の丈をわきまえず、足ることを知ろうとしなかったこの国のありようの犠牲者だった相双の人達とも・・・。

五尺以上はある身体を三尺に縮めるようにしての避難生活の日々。それが身の丈にあった暮らしと言えるのか。

地方政治の長である人間が、その人気にあやかってか、いや、維新の志士を気取ってか、国の統治者になろうとしている。それは身の丈にあったことか・・・。
国政に携わってはいるけれど、とてもじゃない、そんな器量を持ち合わせていない人間が、うまくいけば・・内閣総理大臣の地位を獲得しようとしている。それを「身の程知らず」と謗るのは簡単だが・・・。

「足るを知る」をテーマにした塾のあとの車座談議。そこで飲みほした酒の量は身の丈にあっていたのかどうか・・・。誰も泥酔はしていなかった。

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