2013年2月28日木曜日

「温度差」の事

おとといまでの気温とはうって変って、きのう、きょうと“春”を予感させる気温。わずか二日で10度も変わると言う温度差。

寒さのせいだったのか。行きつけの魚屋さんの息子さんが、クモ膜下出血で過日亡くなったとのこと。一家の大黒柱。お子さん3人、両親、奥さん・・・。
寒い仕事場で倒れていたという。

何処とは言わない、何処とも言えない。あの大震災、津波で、一家の主を亡くされた家庭は数多くある。その“光景”が重なってしまう。

遅ればせながら弔問にと。今日、その仕事をやっていれば・・・。他人の勝手な思い。

東京で雑誌社を経営している、主に政治のことを取り上げている月刊誌だが、旧知のその社長から電話がかかって来た。
ある人の“伝記”のような特集をやりたいのだと言う。事情をよく知っているあなたに協力してほしいという。やぶさかでは無い。

ライターや編集者を連れてこっちに来ると言う。それが要件。

途中の会話。地震の被害状況を聞かれ、それに答える。今はなんともないのかと聞かれる。そうだと答える。
そっちに行ったついでにゴルフをしようと言う。昔はよく一緒に遊んだから。
グルフはやらないと答える。
何故?。そんな心境にならないと答える。だって健康なんだろ、普通に暮らしているのだろうと問われる。

「あのね、ここはね、被災地なんだよ。俺は普通の生活をしているけど、ここは被災地なんだよ。不自由な生活をしている人が大勢いるんだよ。そんな気分になれないな」。
「そうか、被災地か・・」。会話が途切れたりもした。

友情とは別問題。やはり感じる東京と郡山の温度差。気持ちの温度差。いかんともし難いことなのだが。
もしかしたら、ボク自身の中で、日常生活というものの「回路」が狂ってしまっているのかもしれない。進めないのかもしれない。
ゴルフと聞くと、よく通っていた富岡のゴルフ場を思い出してしまうからかもしれない。“無人”のゴルフ場を。

スピードという言葉の温度差。

高度経済成長の副産物だった原発。車、新幹線、生活様式・・・。さまざまな分野で人々はスピードを求めた。一日24時間を48時間あるように勘違いしたような生活を送った。

国の形としての成長、急成長。それに、はたして人の頭脳や心がついていっていたのか。

たぶん、こころと形がバランスを欠いたまま、この国は進んで来たのではないかとも思う。

「便利さ」の中に、沢山の“忘れ物”をしてきたにもかかわらず、忘れ物があること自体に気付いていないような。

今朝の天声人語にあった一節。名古屋を走ったSLの機関士さんの言葉だという。
SLは人間が作った乗り物での中で、一番人間に近い。しんどそうに、坂を上ったり、楽に走ったり。人間らしくやりたいナ」と。

そして政治家は言う。権力を持った人は言う。「スピード感をもった復興」と。
あちこちに“更地”が出来た。瓦礫なるものも福島県を除いては処分が進められている。それが「復興」なのか。

仮設住宅に住む人達は言う。「もう復興という言葉に期待しない」と。自分がやれることを細々とやって、勝手に自分のこころの復興を図っているとも。

昨日書いた双葉の話し。井戸川前町長は立候補を辞退したという。健康の問題だと言っているそうだが、その“実態”“真相”はわからない。

「わからないこと」だらけ。何が何処で起きているのか、何が何処でどうなっているのか。自分の心の中の“温度差”を埋めて、縮めていかなければならないと思うのだが・・・。

2013年2月27日水曜日

双葉のこと

「日本にある原発のうちで、県名を発電所につけているところは何処でしょう」と尋ねてみた。講演で。手が挙がらない。仕方ないから答える。「福島と島根の二県だけです」と。

福島は今や、いやもっと以前からそうだが、イコール放射能汚染。イコール原発とされている。

例えばお隣の宮城県は女川原発。東通、浜岡、泊・・・。皆、その他町村名。東通に至っては「とうつう」と読む人もいるとか。
福井に至っては、それは高速増殖炉だけど、もんじゅであったりふげんであったりの菩薩さま。
茨城は常陽・・・。

東京電力福島第一、第二発電所があるところは双葉郡という。もし、建設当時「双葉原発」を名付けていたら、原発事故をめぐる様々な問題が「福島」という言葉で括られていただろうか。放射線量汚染の極めて低い会津地方までが、その“対象”とされていただろうか。
なにも「双葉地方」をどうこういうものでは決して無い。そこに居た方々には、こんなことを言うと申し訳ない気にもなるが。
「福島原発」という名称があったゆえに、多くの福島県民が“苦しめられている”ということ。

福島原発の名付け親が当時の県知事、大竹作摩氏だったかどうかは知らないが。福島県を全国に“有名”にしたかったのかどうかも知らないが。

福島県の浜通りにある双葉郡。8町村。双葉という二つの葉。それは、明治の初め、それまであった標葉郡、それは相馬氏の流れをくむ中村藩の所領、そこと楢葉郡、岩城氏所領の藩、そこが合併して出来た郡。

そして、標葉郡には富山県からの開拓入植者が多かったとも聞く。

戊辰戦争の後、今の福島県という地方は、中央政府、明治政府によって、さまざまな意味で“攪乱”されて来た。行政区画の線引きにしても然り。
郡山という貧農の地は安積開拓によって発展したのだが。

原発事故。20キロ、30キロ。警戒区域、帰還困難区域。時の政府の、それこそ、どこが“起点”なのかわからない、実測なんてありえない、机上の地図でひかれた線引き。自分の家の半分が線で分けられる。隣ともそうだ。杭が打たれているのか、バリケードが張られているのか、地面にチョークで書いてあるのか。

ばかやろ~~、ふざけんな!!。

双葉郡双葉町。その町もかつては標葉郡に所属していた二つの町と村が合併し標葉町となり双葉町に“改名”した。地形的には元は相馬藩、伊達藩の系譜となる。

双葉町が揺れている。井戸川町長の不信任、辞任。そして町議選、町長選。役場を埼玉県加須市から、いわき市に移す作業は進められているが。

双葉町には、かつて知り合いが何人かいた。その町にも行った。

井戸川町長と直接面識は無い。町議も知らない。町議選はあす告示される。
井戸川町長(前というべきだが)に対する毀誉褒貶さまざまだ。

町のホームページやメディアが伝える彼の「思い」。そして、彼から感じる反骨精神、反権力的姿勢。共感できる部分もある。

国や県、東電。敵は「大物」だ。だからこそ双葉8町村が一体となって行動しよう、要求しようという主張ややり方はわかる。「乱して」はならないというたの首長の主張も。

首長の在り方、そのリーダーとしての在り方。さまざまだ。

しかし、「双葉町」に、この原発事故の“象徴”を見る。まさに流浪の民であったことを含め、今なお、騎西中学の校舎に“避難所”のまま暮らしている住民がいることを含めて。そこにいるのはもちろん、全町民ではないが。県内の他所に避難している人達も多いが。

井戸川氏は再び町長選に立候補する。町議からも出る。県外の人達も、それは“火中の栗”を拾うことなのかどうか、動機は定かではないが、7~8人が選挙に出る。

それらを含めて、同じ福島県人として、それをどう見るのか。

数日前、会津若松の仮設に住む大熊町の公務員としばし話をした。
「国が何も決めない」。それが一番の原因なんですよ。彼は静かに話していた。
目には怒りの光をみなぎらせながら。

双葉郡をどうするのか、双葉郡はどうなって行くのか・・・。当事者でないボクが物を言うべきかどうか。

その答えを見つけるためにも、ちょっと触れた、彼の地の「歴史」・・・。

福島県人は、福島を知らねばならないと。

2013年2月26日火曜日

「古いものが新しい」ということ

温故知新という言葉ではないけれど、昔からいい習わされて来た言葉はその価値観も含めて、いや、言葉だけじゃない、風俗・習慣も含めて先人の残した言葉は「意味」を持っていると、つくづく思う。

昨日、コミュニティーという言葉へのいささかの疑義を書いた。相変わらず、マスコミの世界では、メディアの世界では、そのコミュニティーという言葉が幅を利かしているようだ。

被災市町村から人口流出が激しい。それにマスコミは警鐘を鳴らす。地域コミュニティーが崩壊すると。

今朝、仮設に寄ってコミュニティーという言葉を使ってみた。チンプンカンプンだ。
「一定の地域に居住し、共属感情を持つ人達の集団、地域社会、共同体」。ばあちゃんが持っていた辞書を引いて見せる。
「なんだい、おら、難しい横文字はわかんね。部落の事だべ」とおっしゃる。

そう「部落」でよかったんだよ。その表現の方がいろんな意味でぴったりくる。
いつの時期からか、戦後しばらく経ってからか。都会では「部落」という言葉は、「差別」の代名詞とされ、少なくとも放送禁止用語とされ、それに代わって横文字が登場した。集落と部落を置き換える。やはり伝わり方が違う。

被災地の首長さんたちも、皆、よく使う。コミュニティーと。「持ち込まれた言語」という印象を持つ。

災後、多くの人々は、心の支えとしての「言葉」を探していた。
「がんばろう」「絆」「ひとつだ」・・・。
言ってみれば空念仏。

怖いもののたとえ。地震、雷、火事、おやじ。だった。まさにその通りだったが、今を生きる人達は、そんな古い言葉、表現をゴミ箱に入れてしまい、新しい言葉、科学的な言葉、識者が使う言葉に「同化」されて行ってしまった。

ちょっと前か。いくつかの諺を引いて世の中に譬えてみた。諺、ほとんど“正解”なのだ。政治家は「羹に懲りて膾を吹く」し、「眼くそ鼻くそを嗤っている」し。

例えば論語や、南州翁遺訓に回帰しろとは言わない。災後だからと言って新しい言葉を探す必要はない。
身の回りにある、親や祖父母が言っていた言葉を思い出してごらん。そこには「真実」や「真理」が隠されているから。

新しい生き方を求めたいのなら、方丈記に回帰してみればいい。今の時代に適応する生き方が書かれているから。

新しい言葉が闊歩するネット社会でも、時々誰かが引っ張り出している言葉は、「古い言葉」「古い格言」だということ。

高校生の時代から、ボクにとっての音楽は基本的にジャズだった。デキシーランドからはじまってシカゴやカンサスのフルバンド、そしてコンボのイーストコースト、ウエストコーストジャズ。
曲も歌も。

いつしかジャズはすたれた。4ビートに飽き足らない人達が8ビートから16ビートへと。

そしてまた、いつの間にかジャズは「復権」を果たしていた。ジャズが好きだという青年に聞く。なんでと。「新しいです、新鮮です」と言われた。

古いものは新しいのだ。

「ここより下に家を建てるな」。大震災後、見つかった標識。苔むした石碑。
それは忘れ去られていた。福島県人、山口弥一郎が建てたと言う碑。
「津波てんでんこ」だけは生きていたのかどうか・・・。

古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよということなのか。

2013年2月25日月曜日

「身土不二」と「コミュニティー」と

身土不二という言葉がある。いろんな解釈がされている。今はやりのマクロビとか地産地消につながるものとか、医食同源と同義語だとか。

字をそのまま読めば、身体と土は二つならず。一体だということになる。

「自分が生まれ育った土地の、自分の家から一里四方の土地、田畑から採れた食物を食べて暮らすのが最良だということだ。それは自分が住んでいる土地の気候風土、毎日吸っている空気、それと同じ環境のところで出来あがった農作物を食べて暮らすのが理にかなっているということだ」。
そんな話をしたことがある。塾で。

大都会ではありえないこと。それでも、子供の頃はまだ東京でも、家の近所に畑があり、田んぼがあり、西瓜畑があり、トウモロコシ畑もあった。よく盗んだ・・・。

ちょっと「郊外」に出ると、それこそ八王子あたりまではいかなくとも、三多摩と言われるところには田園風景、農村風景があったものだが。

原発事故は、その身土不二という考えを一変させた。幸い、ここ郡山では、一里四方ではないものの、地元で採れる野菜や米が、手に入る。入る時には。
身土不二とは季節感をも伴っている。
郡山の農家では、よほどの大規模農家ではない限り、季節外れの物は作らないが。

原発被災地。相馬から双葉郡8町村。農家が多い。多かった。そこでは、たぶんお茶受けの漬物からはじまって、知らず知らずというか、当然のこととして身土不二が実践されていた。

なによりも美味しいから。

その身土不二の“感覚”が、地域コミュニティーという“集落”を形作っていたのではないかとも思う。「同じ」ものを食べているから。

それが見事に崩壊した。
もう、自分の畑や田んぼで作られるものを食べることが出来ない。
ふるさとに戻りたい、元の生活に戻りたい。そんな想いを強く抱いている人達には、おそらく、その、理屈では無く、身体に染みついた“感覚”があるのではないかとも思う。

一つの側面から見ただけのことかもしれないが。

昨夜、町内会の集まりがあった。「うちのばあちゃんが漬けたんだ」。差し入れの白菜の漬物。美味しかった。
そして飲みながらの話題は、近くにある仮設の話にも及ぶ。町内会にも借り上げ住宅に住む何世帯かの避難してきた人達がいる。帰るあての無い町の人達。

「あの仮設は何年あるんでしょうかね」と聞かれる。「今は3年です」と答える。そして今朝見た新聞。4年に“延長”と書かれていた。復興住宅の建設が進まない。
我が家の近くの、ビッグパレット脇の仮設に暮らす人達は、まだあろ2年、そこで暮らすことになる。

車を持っていて若い人たちは、ちょっと遠距離のスーパーに買い物に行く。車を持たない、運転出来ない高齢者は、キャリーバッグをひっぱりながら、この寒い時期でも、風の強い日でも、20分ほど歩いて、そこにあるスーパーに行く。そこにある野菜は、ほとんどが県外産。

どんな思いで食料品を買っているのだろうな・・・ふと思う。

話は飛ぶ。「もしね、あの時、ここも避難区域になっていたら、どうする?町内会が一緒になって、どこかの体育館に行くかい?
コミュニティーってことで?」そう聞く。「あり得ない」と返答がある。「だってさ、180世帯の町内会だって、向こう三軒両隣、はっきり言って住んでいる人達のこと、よくわからないもん」と。

前にも書いた。個人情報保護法は地域のつながりをコミュニティーを“破壊”していると。それを言うと町内会の役員さんたちは、同感してくれるが。

そしてーー、今でもあるだろう被災地の地域コミュニティーというもの。それも健在しているのかどうか。例えば補償金の話しなどでは必ず意見が分かれる。
地域コミュニティー。なんだかわからない横文字。識者が好んで使う。
部落や集落に置き換えた方がわかりやすいのになんでも横文字。

それは今でも存在し、機能しているのか。多くの地域で。崩壊しかかっているようにも見える。

自主避難した人達は、そこで新たな「コミュニティー」なるものを作ったとも聞く。それが出来れば、そこからは逃れ難くなる。

あの震災、原発事故が壊したものは余りにも大きい。

2013年2月24日日曜日

おおい、雲よ・・・

ふくいちライブカメラで見る4号機側からの映像。そこでの人や機械の動きはわからない。動いているには青空に浮かぶ雲だけ・・・。

いわき市にゆかりがある詩人山村暮鳥の詩。「雲」。

おうい くもよ
ゆうゆうと
ばかに のんきそうじゃ ないか
どこまで ゆくんだ
ずっと いわきだいらの ほうまで ゆくんか
そして、これと重なる詩をもう一つ。「ある時」。

雲もまた自分のようだ
自分のように
すっかり途方にくれているのだ
あまりにあまりにひろすぎる
涯のない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひょっこりとでてきませんか

昨日出席した、ある研修会。著名な外交専門の大学教授の講演。時宜を得た話として安倍訪米、日米首脳会談の事。
“成果”を絶賛。失われた3年余りの日米同盟。それが再構築出来た。話は、それを元にして、尖閣や日中、対ロ外交、北方領土問題、憲法改正問題へと発展していく。

日米首脳会談、マスコミの評価も概ね上々かとも。そしてマスコミが関心を示し、裏や解説まで執心するのはTPP。
なぜか、原発問題に触れた安倍発言やオバマの反応に関しての記述が少ない。

安倍は「2030年代の原発稼働ゼロ」という民主党政権の方針を見直す考えを強調し、アバマもそれに“同意”したはずだが。
安倍の言う見直し。今後10年かけて原発再稼働の問題、国の原発政策を検討し議論していくというもの。

つまり、ひらたく言えば「10年間」は店晒しってことかとも。

国の明確な方針が決まらない限り、たとえば立地地域のまさかに備えた避難計画だって策定出来ないし、原子力規制委員会だって、へたすりゃ“無用の長物”ともなりかねない。

日本の原発政策。それはアメリカにとっても最大関心事。同盟強化を成果とする以上、原発問題でアメリカの考え、意向、思惑に異を唱えるわけにはいかない。

“原発をめぐる日米同盟”、そんなものも存在している。

原発とはイコール、エネルギー問題。日ロ会談だって、お互い目指すのはエネルギー問題。
外交とは、その9割が内政問題。そう解釈すべきかと。

日米首脳会談での原発問題をめぐるやりとりや思惑について、メディアでの“明確”な解説や論評が見られない。

おおい、雲よ、原発問題をどっかに運んで行ってしまってくれるなよ。

雲と一緒に、人の心も流れて行ってくれるなよ。

2013年2月23日土曜日

すべてのことには”時”がある

地震は時々あるし、雪は例を見ないような量が降ったところもあるし、隕石が落下しているし、あげく、太陽の黒点がどうだとか。

地球がおかしいよ、宇宙は・・・。無知な素人はすぐそう考える。

隕石がロシアに落下した時、あるテレビの女性アナウンサーが決まり文句を言っていた。
「まさかの時に備えて、皆さま、十分に備えをなさっておいてください」みたいなことを。どう備えりゃいいんだい・・。

世の中、決まり文句で成り立っている。臨機応変の言葉遣いって無いのか。

その番組でか。学者が言っていた。宇宙の動き、それは、結局よくわかりません。もはや“宗教”の分野かもしれないですね。と。

なかなか正直な奴だ。一昨年のあの日以降、時々引用させて貰っていたのが旧約聖書の一部。あらためて取り出してみる。なんとも時宜にかなったものだなと。

旧約聖書、伝道の書(コヘルトの言葉)にある一節。

何事においても最もふさわしい時期があり
この世の中のすべてのことには時がある。

生まれる時があれば、死ぬ時がある。
植える時があれば、植えたものを引き抜く時がある。

殺す時があれば、癒す時がある。
壊す時があれば、建てる時がある。

泣く時があれば、笑う時がある。
嘆く時があれば、踊る時がある。

石を投げる時があれば、石を集める時がある。
抱擁する時があれば、抱擁をやめる時がある。

探す時があれば、探すのをあきらめる時がある。
取り置く時があれば、捨て去る時がある。

被災地、福島県。時が止まってしまったままの所が多い。あの日のまま。
「すべてのことに時がある」。その「時」とは叶った、時宜に叶った時と解釈する。

あらゆることが、ほとんどの事が、その時を失し、その場を失し、神の意志とは、いや、神に意志があるかどうかも不明だが、“悪魔”に追われたごとき民や生き物が生まれ、捨て去られたような日々にあるということ。

それは、たぶん、人間が、火を求め、文明の名のもとに、豊かな暮らしを求めるために手を染めたことに対する火の神の怒りにふれたことなのかもしれないが。

被災地とは無関係に世の中の多くは動いている。それは致し方無きことであり、「その時」はもう過去のものとされてしまっているのかもしれないから。

前を向くって、そういうことだったのかなとも。

日米首脳会談があった。TPP問題含め、同盟強化を含め、「一致」したことの多くが伝えられる。3年数カ月の空白があったと言う。これも「時」か。

森元首相が、「時」を同じくしてロシアに行った。引き分け論議をしてきた。気配は“二島返還”に向かう気配。

きょうも雪は降っている。ロシアでもアメリカでも。政治・外交でお互いの雪解けムードが“演出”される。

それは日中・日韓の間の“わだかまり”への影響もあるだろう。

すべてのことに時がある。それは時の流れに身を任せ・・ということではない。

そして思う。帰れない故郷を、いまだ“取り置く時”なのか、“捨て去る時”なのか。

時計は止まったままなのか。ちょっとは針が進み始めたのか。「時」をどう受け取り、どう解釈するか。

私事では、時間に追われる一日が始まっている・・・。

2013年2月22日金曜日

全ての事に「意図」がある

国会同意人事の事前報道ルールが廃止されたと言う。国会同意人事が、国会に提示する前に報道されたら、それはご破算というルール。
まったくもってばかばかしいルールが作られ、それが意味を持っていたという不思議。

事前報道とは、マスコミがその人事を取材し伝えること。人事を巡っての取材合戦は何の時でも行われる。

「書かれたらつぶれる」「書いたらつぶす」。

昔、人事の名手と言われた佐藤栄作はそれを“断行”した。
書かれた人事は、組閣に当たっての閣僚人事は、書かれた時に新聞に載った時に消えた。消えた人事。それを「新聞辞令」と呼んだ。

箝口令が敷かれているにもかかわらず何故人事が漏れるのか。取材力だけではない。リークというものがあるからだ。

そこには「意図」があるからだ。全ての事には「意図」があるということ。

その人事を知った人が、それは気に食わないと思って潰そうと思えば、マスコミにリークすればいい。それだけの事。
挙句、「特ダネ」やっただろうと恩を売れるし。

リーク、リーク、リーク。ネタを教える、漏らす。権力のマスコミ操作の基本中の基本。それが垂れ流されるかどうかが問題。

でもリークは権力の側だけには限らない。権力に対抗するために、それを攻撃するために、どっかの団体とか“知恵者”が流すリークだってある。

マスゴミ、マスゴミと声を大にして言っている人たちほど、実はマスコミに登場したがっているはずだし、それを利用しているというのが世の中。

全ての事に“意図”がある。

そう、情報に関してのことに絞ってみるけど。ネット、特にツイッター。そこでふりまかれる「嘘」「デマ」。

またぞろ最近増えてきているような。1年以上も前に飛び交っていたネタを探し当てて振りまいている人達。

この人達の意図とは。目立ちたい。人に認められたい。アイデンティクライシスな人達。嘘やデマで誰かを傷つけようと、悲しまそうと、そんなことは無関係。

「自分のために生きる時代」。それが、今の日本の姿なんだから。

犬が多数死んでいる。子供が鼻血を流して苦しんでいる。見殺しにするのか。
福島に今も人が住んでいるのが不思議だ。お願い逃げて。
福島の野菜が、山菜が東京で売られている。なんでそれを政府は取り締まらないんだ。
原発では放射線量が異常に上昇している。東電や国は隠している。

まさに“愉快犯的意図”を持った人達が跋扈しっている。誤りは正さねばと、真面目な人は、つい、反論する。喜んでいるのだろうな。そんな人達は。

孤族という言葉が往々にして使われている。マスコミで。孤とはあくまで孤。一人のことのはず。それに族がつく。族とは・・・。家族という言葉に象徴されるように「一定の範囲を形作る同種類の仲間」とされている。

孤族とは仲間じゃないの。孤ではないじゃないの。そんな屁理屈言いたい亭主。

人の噂を伝播することだって“意図”がある。リークで無いにはしても、テレビで伝える“情報”にも、時には“意図”がある。
購買意欲をそそらせる”意図“が。

“意図”を持った情報に踊らされる人達・・。

リテラシー能力なんていう“業界用語”的な言葉は使いたくないが、考えることを止めた日本人には、それを求めても無理なのかなとも。

嫌だね、世間は。