1960年10月12日、その日ボクは確かに家にいた。まだ入って間もないテレビを見ていた。
そして、テレビが映し出す映像。日比谷公会堂で社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の少年、山口二矢に襲撃され、刺殺される場面を見た。その映像は何回も繰り返し放送されていた。
そして、その瞬間をアップで捉え、浅沼委員長が崩れ落ちる瞬間、眼鏡がずり落ちる瞬間をとらえた、多分、毎日新聞であった一枚の写真が、後にピューリツアー賞を受賞した。
それからしばらくして、ノンフィクションライターと言われる沢木耕太郎が、この事件をテーマに本を書いた。「テロルの決算」。17歳の少年と61歳の政治家。何の接点もない二人が偶然にして遭遇する一瞬。浅沼を追悼し、山口二矢という右翼青年が出来あがる時代を、まさに肉迫するように、そして、それは客観描写ではなく、内面にも立ち入ったノンフィクションとして、感銘を受けたのを覚えている。そしてテレビ屋のボクはなぜか大の沢木フアンになって行く。多くの彼の著作を読んだ。一瞬の夏、敗れざる者達・・・。
沢木は「戦場カメラマン」のロバート・キャパを書いた本を翻訳している。キャパの“研究者”ともいえる。
NHKスペシャル、「運命の一枚」。キャパの名を有名にした「崩れ落ちる兵士」というスペイン戦争下の写真をめぐって、その写真が撮られたスペインのエスペホの丘に立ち、最近公開されたという43枚のネガを素材として、コンピューターグラフィック技術を駆使して、そのキャパが撮ったとされていた写真は、実は同行していた恋人ゲルダ・タローの手によるものであることを解き明かし、、キャパが語らなかった、語れなかった“真実”に迫るという番組。
一枚の写真を「読み解き」、その「謎」の迫るという作業、それを「映像」として伝える作業。テレビにしか出来ないものではないだろうか。
テレビにはまだまだ「力」があるのだ。出来ることがあるのだ。テレビが伝えなければならないことがあるのだ。そんな想いが交錯した番組。
テレビにはまだまだ「遡求力」がある。
そして思い出す。幾たびか話題とされた津波に流されて写真を一枚一枚拾い、洗い、乾かし、持ち主や関係者のもとへもどす作業をしていた人達がいた一昨年の光景。
動く映像よりも、いや、その映像が記録、保存されていたとしても、切り取られた一枚の写真の方が訴える力や語りかけてくることを多く含んでいることを。
テレビドキュメンタリーの“面白さ”をあらためて感じた。
テレビでしか伝えられない過去や歴史があるのかもしれない。文字では伝えられないものが。
テレビでしか知りえないこともあるはず。
今、ボクは毎日の視聴率を知る立場にない。この番組がどれだけの数字を取ったのかを知らない。
だけど、この番組を見た人は、たぶん、テレビを見捨てはしないだろうなと思う。
そして何よりも沢木耕太郎が見捨てていなかったこと。彼は文筆家である。ノンフィクション作家である。
「書く」という作業で表現を出来る、いやすでに表現をしてきた、それらの価値も認められて人である。
その彼がなぜ、敢えて自分が長年温めてきたテーマの“解決先”をテレビに求めたのか。彼が思っている「テレビの力」が、そこにあったからではないかと。
やはりテレビは面白いかも。これは賛辞ではない。まだ、その気になれば可能性があるということ。60年後のテレビのために今、テレビマン達は何をすべきかということ。