2013年2月20日水曜日

「風騒居」。斉藤隆の続き・・・

きょうの当店、「二本立て上映」です。斉藤隆に触発されて、彼が川内村に居た時のルポみたいなものです。
いささか長文。お時間のある方、興味ある方だけどうぞ。2007年に書いたものです。



                「風騒居」斉藤隆のこと。


 電話で道順を聞いていたにもかかわらず、やっぱり迷ってしまった。人家を探しながら、林道に乗り入れた車は、なんと行き止まり。ままならないUターンをして、山間(やまあい)にある寓居を見つけた。
モリアオガエルの生息地として有名な平伏沼から東へ2キロほど。「風騒居」と名づけられた画家斉藤隆さん(62歳)の住居兼アトリエは、緑に覆われた小高い山の下に楚々として建っていた。その名の通り、まさに風の騒ぐ音を友として暮らす、松籟の音を創作の糧とするー。異形の画家、異形の作品。自然の中に生き、自然なこころを作品として表現するー。平成の“仙人”はこの地で“単身生活”を送る。その暮らしをと“こころ”を追った。

 斉藤さんがここ川内村に居を構えたのは平成元年。45歳の時。詩人草野心平さんとゆかりのある村の古刹「長福寺」の住職の世話だという。
もともとはタバコ農家の作業所だった建物を改装した住居兼アトリエ。その集落はたった3軒。そのいずれもがかつては開拓民のタバコ農家だったという。
双葉郡川内村上川内字子笹目。一帯はかつてタバコ畑だったというが、今その面影は全くない。斉藤さんがここに移り住んでから17年。「こんなに一箇所に長く住んだことはないね。多分ここで死ぬのかと・・・」と斉藤さんは言う。何故ここが気に入ったのか。その問いには斉藤さんは答えなかった。彼のこころの中だけの問題なのだろう。ただ一言。「ここはね、雪はあまり降らないけど、凄く寒いんだ。その寒さがたまらない・・・」。

「放浪の画家」と、自らを、やや誇らしげに言う。東京都足立区の生まれ。
定時制高校を一年で中退。数年間、大阪を皮切りに福岡、宮崎、鹿児島、北海道と放浪する。
「勉強が出来なくてね。単位が取れなくて二年に進級できなかったんだ。で、学校は俺には向かないと思ってね。すっぱりやめちゃった。家も貧乏だったし。悔いはなかったね。ま、いろんな仕事したな。工員、土方、新聞配達、牛乳配達」。
「画の原点はその頃にあるんだな。人を見るのが好きでね。仕事をしながら、そこで働くいろんな人をじっと見詰めてきたのかな。でね、その人たちの顔を描いてみたくなった」。
「なぜか画はこどものころからうまかったんだよね。うまいうまいって誉められて」。
とつとつと画家になったいきさつを話しはじめてくれた。

 木造平屋。部屋は3室。アトリエに書斎兼倉庫、それに居間と台所。通された居間はなんとなく雑然としているようで整然としており、カビくさいようでいながら、吹き込む風のせいだろうか、なぜか清々しかった。
「秋の菊 いい色合いだ  露に濡れ 花びらをつむ」
高村光太郎の詩を書いた額が斉藤さんの頭上にある。たんすや戸棚も古臭い。詰まれた書籍もいささか色あせている。FAX付の電話器の新しさが妙に違和感を覚える。よく見ればテーブルは火の入っていないコタツだし、部屋の真ん中には石油ストーブがそのまま置かれている。そして、家のどこを見てもテレビが無い。
「この部屋もそろそろ直さないとね。畳の下の床が痛んでいるんだよ。でもさア直すと金かかるだろ。いま、生活費は国民年金の月6万円なんだ」。むしろそれが愉快だといわんばかりの仙人の言。
「釣人も なすも 胡も 驟雨かな」彼自身が書いた一句が無造作に柱に留めてある。日々の生活を何気なく詠んだのだろうか。

 アトリエの隣の書斎にも一幅の扁額。「沙棠舟」とある。さどうの舟と読む。李白の詩、江上吟の冒頭の一節。なんと、世阿弥の字だという。沙棠とは木の名前。その木で作った船は沈まないと中国では謂われてきた。この舟の上で酒宴を開き、やおら筆をとって詩文を書き上げる。詩と酒は自分にとっては何ものにも代えがたい楽しみだーーそんな意味の詩。酒が大好きという斉藤さんが好んで扁額するのもうなずける。

 求めに応じて、書庫から自分の図録を数冊もってあらわれた斉藤さんは、自分の絵の遍歴を話し始めた。
「人の顔ばかり描いてきたね。人が好きなんだ。顔だけではなく全体像ももちろん描いてきたけど。とにかく、人・人・人―。描くことによってその人がわかるし、人の顔に自分のこころを映しこんでいるんだな、きっと」。
しかしーそれにしても彼が書く人物像は、まさしく“異形”である。そのことを問うと、即座に切って捨てられた。
「いや、あれが自然なんだよ」と。作品の題名も難しい。「出山」「寒山拾得」
「堕ちる」「とぶよ」「あかんべぇ」等々。
作品と題名を重ね合わせると、どこか宗教的、哲学的モチーフが見えてくる。
そのことを問うとー。
「仏教徒なんだ。曹洞宗。すごく興味と関心あるね。それと作品との関連はあまり意識してこなかったけど。ただね、いつも自分とはなんだろうーと考え続けているさ。でね、自然に生きようとは思ってる。年をとってからだんだんその思いが強くなってきたかな。生きてるうちにしなければならないことはなんだろうか、死んでみたらどうなるのかな。わからないでしょ。だから、自然が良いんだ」。
なるほどーーー。彼の言う自然の中には、天地の自然とこころの自然が同居している。そう気付くと、「風騒居」の居心地が仏様の懐の中のように感じられてきた。人ばかり描いてきたにもかかわらず、「十六羅漢像」も描き、「釈迦の十大弟子」も描いた。いずれも彼の力作である。

ケント紙にコンテ(デッサン用のクレヨン)という技法をある時から和紙に墨に代えた。墨のほうがより自分の書きたいものを素直に書けると思ったからだという。
1991年、ケント紙にコンテを使った作品「48歳の自画像」。1995年の作品「52歳の自画像」は、和紙に墨を使った作品。50歳を境に画風が明らかに変わったように思える。墨絵の自画像の目は、どこか、仏様に似ているような気がした。
 そして画のテーマを明確にした。「風化」と「老化」。自分に課された命題、課した目標。“老い”を見据えること。この世に生まれた生物は、やがて、死して土に還る。還元――――。そここで見つけた木々の槌。風化しつつあるそれらのものを描き続ける。
「樹(天)」と題した1998年の作品。自信作のひとつ。この画について彼は、読売新聞「絵は風景」という特集記事の中でこう語っている。
「ずっと心のドラマばかり描いてきたんだけど、周りに目が行くようになってきた。地べたもある、空気もある。人間ばかりを描くんじゃないって50歳を過ぎてやっとわかった。風とか空気の重さが見えるようになった。でも、その造形でなくて、内在するものを描きたい。物が風化する場合にはそれが見える。木というのは腐って、風化していくと空気にかわるんじやないかな」。
樹(天)という題名は木が飛んでゆくようにみえるという思いでつけた。人間が生きていることと同じような絵描きの科学だと彼は言う。


ここまで書いてきて実はかなり疲れを感じました。芸術家ってかなり難しいが人多いし、作品をみると、なんか、固いこと書かないと相手に失礼なのかなって考えてしまいます。
斉藤さんは、かなり“変な”人。生活サイクルも変。起床は午前2時。仕事にとりかかる。この時間は天体とつながれるからだとか。そのあと散歩。そして一合の酒を飲んで朝ごはん。
そのあと昼寝。起きたら仕事。夕方散歩してまた一合の酒を楽しんで晩御飯。午後8時には寝るというのです。友達や絵描き仲間と時々カラオケに行くのが好き。持ち歌は5曲。♪めんない千鳥・他人船・北帰行・さすらい・惜別の歌♪。
このあたり、普通のおじさんなんですが。

 放浪の画家 斉藤隆の物語を続けるー。

1973年(昭和48年)40歳の時に西会津。翌年、会津若松、その次の年は会津本郷と歴史の町会津地方を転々とする。仏教文化が栄えた会津の地が、彼を呼んだのかもしれない。しかし・・・放浪はさらに新潟は佐渡、秋田は男鹿市と続く。そして再び福島の地へ。三春を経て、ここ川内村で旅の終焉を迎えようとしている。
絵描きはどうして東北を目指し、そこで生き続けるのか。
「彼が幼年期・少年期を過ごした時代、東京という場所は、まさしく戦後の混沌の場であった。やがてくる高度成長の時代は、彼の周りから「土」を奪って行った。東京は精神的拠り所ではない。多くの人々は生活の安定と引き換えに、東京に足元を定めた。しかし、斉藤さんはそれを拒絶した。放浪することによって自分の足元を、立つべき場所を探し求めた。そして、東北の地に、立つべき場所を見つけたのだ。彼とかかわりの深いリアス・アーク美術館の学芸員、山内宏泰さんはこう解説する。

近年、斉藤さんは好んで「字」を書く。字といっても、書家の書く字とは全く趣きを異にする。一見、稚拙そうに見える字。しかし、それは字というか画そのものであることに気付く。荘子の言葉を好んで書くという斉藤さん。そこに書かれた字は、まるで彼の手によって息吹を与えられたように、読む(見る)者にその言葉の意味までをも伝えてくれる。
「俺の画はああいう画だろ。あまり売れないんだよね。それがね、字は売れるんだ。おかしなもんだね」。屈託のない笑顔をみせる斉藤さん。これまでに最高の値がついて画は、知人の薦めで「なんでも鑑定団」に出した「龍」という作品。600万円。その大金も、借金の返済や、友達と飲み歩いて、あっという間に消えたとか。


実は、斉藤さんには県内にもう一軒家がある。三春町下舞木。ギャラリー「閑花邨舎」。奥さんと娘、孫が住んでいる。斉藤さんは、いあわゆる「賞」というものを嫌う。ただ自分の作品の発表の場は持ちたいと考えている。多くの作品は、あちらこちらの美術館に収蔵されており、いわば散逸状態。ここ閑花邨舎にだけは彼の気に入った自作だけが展示されている。そして、時々、友人の画家たちと「二人展」「三人展」を行ってきた。閑花邨舎に来るのは年に数回。車は運転出来ないので、奥さんの愛子さんに迎えに来てもらう。ローンで建てたギャラリーの維持費、家計の切り盛りは一切合切、奥さんの「内助」に頼っているという。
斉藤さんが愛子さんと結婚したのは26歳の時。翌年、娘さんが生まれた。
画家のこころの遍歴に、奥さんはどうかかわり、どう思ってきたのだろうか。
「私も若い頃、画家志望でしてね。で、旦那とちょっとしたきっかけで出会い、好きになって・・・。人柄と作品、両方にね。で、いわゆるおしかけ女房―。
彼の画が好きなんです。ダイヤモンドの原石だと思いましたよ。彼の絵の前に立っていると涼しい風が吹いてくる気がするんです」。
今も画家斉藤隆を尊敬しているという。さらに、いわゆるのろけ話。
「大酒飲みだったし、稼ぎは悪いし。 “家族”というしがらみを嫌うし、家族と居るとうるさいからといって川内村に籠もっているし。旦那としては最低。絵描きとしては私の誇り」。
放浪“癖”があることを、結婚するまで知らなかったという。でも、結婚してからは、その放浪について歩いた。そして、福島に定住してからは、ほとんど“別居”。画家斉藤隆の存在意義を誰よりもわかっているからだろう。絵描きを夢みた少女が、一人の画家と出会うことで、自分の夢をその男に託しているからなのだろう。


 再び風騒居―。

斉藤さんの話を聞き終え、折から降り出した驟雨を避けるように、足早に辞去しようとした。訪れた時、大きななき声で迎えてくれた斉藤さんの愛犬ハナコ。
そのハナコが気配を察して犬小屋から、のそりと出て来た。尻尾を振りながら、ワンワンと吠え続けていた。犬は飼い主に似るという。確かに、ハナコの目と斉藤さんの目は驚くほど似ている。ハナコは「まだ帰るなよ」といわんばかり吠え続ける。「おれって、実は、淋しがりやなんだよね」。図録を見ながらポツリと言った斉藤さんの一言とハナコの泣き声が、なぜかだぶって聞こえたー。

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