もともと「合意」っていうことの“定義”は何なんだろう。
意志が一致することっていう一般的な解釈があてはまらない。
憲法24条にある「婚姻は両性の合意のみに基ずいて成立し・・」。二人の意見の一致ってことならわかるけれど。
その憲法、「改正」の意図を明確に持っている安倍政権。そのために「国民的合意をとりつけたい」とも言う。
憲法96条にはこうある。「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」と。
国民の代表である国会議員の3分の2の賛成。それは「国民的合意」ということなのか。それのハードルを下げようと「合意」の基準を半分にしようと考えているとか。
「合意」という“概念”は民主主義に当てはめた言葉なのかもしれない。民主主義、それは多数決の原理である。すべての事において、全ての人が「合意」するということは、いかなる全体主義的国家であってもあり得ない。
「合意」の基準は、その事例ごとに変わるものなのか。
原発再稼働にしても、「合意」という言葉がよく使われる。そこには国民的合意もあれば、地域住民の「合意」というのもある。
どの“数”をもってして合意とするのか。合意を得るために“説明”が必要だという。「説明」なるものをいくら繰り返しても、それが“丁寧”なものであろうとも、それをもってして「合意形成」はなされるのであろうか。
今、福島県内では、毎日のように「住民合意」という言葉が使われている。原発被災地の住民に対して、その帰還をめぐって。
“汚染物質”の保管をめぐっても、中間貯蔵施設の建設問題をめぐっても、その言葉が「金科玉条」のように使われる。
彼らが言う「住民合意」とは何を、どういう形や結果を指すのか。誰も正解を持ちえないまま、その言葉が一人歩きし、国や行政は、それが「民主的なこと」としている。住民の側は、それが「無視」されることはありえないだろうという“安心材料”のようなものに捉えているかのようだ。
そこの住民の100%の合意なんてありえない。それぞれの町村には住民の代表で構成される議会がある。それらの議会が決すれば、それは住民合意となるのか。たぶん、ならないだろう。
そこでは、もはや間接民主主義は機能しなくなっており、直接民主主義が最良ともされる現状。
直接住民投票にするということか。ならば、その数がいかばかりかを以って「住民合意」と呼ぶのか。
確たる「定義」も無く、確たる「概念」も示されていない、自分たちもそれをわかっていない「住民合意」という“まやかし”に似た言葉で、さまざまなことの決定を先延ばしにしている。
延ばせば延ばすほど「合意形成」は難しくなろうと思うのに。
平たく言おう。上の人達は、自らの責を負い事を恐れ、いかにもそれが「善きこと」かのように装って、下のものに全てを押しつけようとする。
平時にあっては、住民合意を無視してきた人達が、この非常時にあっては、それを隠れ蓑にするという“卑怯なやり方”。
誰もが何も決めないことを民主主義という。
こんな“箴言”が生まれるのかもしれない・・・。