不平や不満、恨みなどを言い、あるいは何らかの行動を伴って気を晴らすことをおうおうにして「溜飲を下げる」という。
誰かに、どこかに責任を押し付け、罪を着せることで、社会はなんとなく平穏を保ってきたのではないかとも思う。
そして、そのことは、しばしば“思いこみの正義”をも伴っている。
溜飲を下げるというのは、ある種の感情の問題であり、事の根本的な解決には寄与していないのだが。
ここで、日々何かを書き、何かを批判し、文句を言っていることも、あるいは溜飲を下げるということに類しているかもしれない。実際は何にも下がっておらず「溜まる」一方なのだが。
原発事故、東電。そこが“悪い”のには決まっている。そこに向かって批判し、抗議する。組織としての東電には、それが当てはまっても、今、あの現場で働いている人達にたいしては、その“攻撃”のまととするのは、ある種、お門違いだ。東電と言う名のもとに“攻撃”されている現場の人達は、その溜飲を何処で、何に対して下げればいいのか。会社なのだろうが。
国、権威、マスコミ。溜飲を下げるべき対象は各所にある。しかし、それらは「下げる」べき対象に値しないのかも知れない。
なんか「見えざる敵」に向かって物を言っているような“悲しみ”さえ覚えることもある。
東京の真ん中で繰り広げられている「反原発デモ」。それは、掲げる目標は「原発」だが、実際は「社会そのもの」に対しての溜飲を下げるって行為なのかもしれない。
東京の人は漠然と思っている。「東北人は我慢強く、貧しく、おとなしい」と。
反原発について大きな運動も、反対行動も起こさないと。
だから、官邸前に「福島の被災者」が(たぶんそうだと思うけど)駆けつけたり参加すると、その人たちは運動の“シンボリック”な対象として、言葉は悪いが“珍重”されているようにも見える。そこに言った福島県人は決して「溜飲を下げに」行ったのではないはずだが。
前にも書いたが、相馬の酪農家の自殺。福島県人は何も言わないのではない。大きなメッセージを壁に刻み、死をもって抗議しているではないかと。
「原発さへ無ければ」と書いて。
彼の死に対して世間では、マスコミの視点ではこう見る。「前途を悲観して」と。そこでそれを“帰結”させてしまう。違うよ、大きな声なんだよ。そこには拡声機もドラムも無かったけれど。
遺族が東電に賠償訴訟を起こした。彼は、久しぶりに“ニュース”に登場した。
遺族の行動、それは溜飲を下げるなんてもんじゃない。仮に勝訴しても溜飲は下がるまい。
一つの大きな権威や権力が、罪に問われて一つの結果が出された時、庶民は溜飲を下げ、怒りをとりあえずは静めるかもしれない。でも、事の本質は突き詰められていないのだ。
そんな「事例」を今までもずいぶん見て来た。まやかしの“平穏”を。
それらの延長線上にあるのが、デマであり、誹謗中傷の類。それらで溜飲を下げ、それらを拡散していることで、どれだけの人が溜飲を下げているのか。