真夜中、放送を終えたテレビがこんなことを言っていた。
「ボクはテレビだ。キミ達をボクは見ている。
キミ達に気に入られようと、気に入られまいと、時には意に沿わないものを吐き出していようと、嫌悪されていることも知っているが。
ボクはわざと“くだらない”番組をやっている。かもしれない。それを喜ぶ人達の顔も見たいし、それを嫌がるキミ達の様子も知りたいから。
嫌だというキミ。キミはネットに“逃げて”いるね。もちろん、ボク達もネットを意識しているけど。
でもね、テレビを嫌って、自分の部屋に入り、“個”として、世の中と付き合う。
ネットの社会で。大方は匿名の。
それは往々にして“孤”につながるんじゃないかな。相手の顔が見えない“会話”は。
昔、ボクの代名詞は“お茶の間”だった。家族が集まる居間の真ん中に置かれ、皆でボクを見てくれていた。ボクが“吐き出す”ものを見て、家族で泣き、時には笑い、話題にしてくれていた。
いつの頃からか、ボクの居場所はお茶の間じゃ無くなったような気がする。
家庭の中でも“個”が珍重され、“孤”が好まれ、ボクは“嘘ばかり言う”と言われ、“本当の事は伝えていない”と言われ、あげく“つまらない”ともいわれるようになった。そう、鼻つまみもんにされていうような気に、時々なる。
今、ボクは消えている。消えたボクの画面にキミの顔を映して見て欲しい。どんな顔に映っているかを見て欲しい。
ボクはキミ達の合わせ鏡であり、キミ達が自己投影されているものかもしれないのだから。
ネットの好意を寄せているキミ達、ネットの情報を信じるキミ達。でもね、その元ネタの多くはボク達、テレビや新聞なのだ。ネットで交わされる情報全てをガセとかデマとかは言わないが。
ネットに仲間を求めているだろう。誰だって孤独は嫌なのだから。でも、その多くは“匿名”という塹壕の中に身を沈めてはいないかな。
ボクはキミ達を取り込んでいるネットを敵視するつもりは無い。むしろ、お互い、そのメディア(媒体)機能として、足らざるところを補完し合えるような関係に持って行きたいと思っている。
仮設住宅で多くの人が暮らしている、夜、孤独さを紛らわすためにボクを見ていてくれているお年寄りがいることを知っている。その人のために役に立ちたい。
家財道具全てを流され、あるいは、それを置きざりにして仮設住宅に住んでいる家族もいる。
そこでは、家族が一つの部屋に集まり、いや、集まらざるを得ないのだが、ボクを見ながら“久しぶりに家族が一つになれたような気がする”と言ってくれていた人達も知っている。その家族のために有意義なものを作って行きたい。
同じ次元、同じ土俵では語り合えないものかもしれないが、ネットという新しい社会環境が出来た中で、ボク達テレビはどうやったら昔のように、キミ達に受け入れてもらえるのか。昔、ある番組の時間は銭湯が空になったとまで言われたような“伝説”をも取り戻したいとも思っている。
そして、あらためて“家族の一員”であり続けたいと思っている。そのための“再起”を誓うつもりだ。
話が長くなった。でも、ちょっとの間、ボクの“つぶやき”を聞いてくれてありがとう」。
そう言ってテレビは束の間の眠りについた・・・・。
明日の朝、テレビは変わっているのだろうか。1年後、いや10年後、どう変わっているのだろうか。
楽しみでもあり、怖い思いさえある。
「テレビをめぐる話し」のエピローグとして、テレビに語らせてみた。