全ての政治家に「福島の今」を見て貰いたいと思っている。
「見ること」、それを折に触れて言い続けて来た。
人間は、いくらメディアが発達していようと、自分の目で見、耳で聞いてみないとわからないものだから。
きのう自民党の小泉進次郎が警戒区域を見て回り、被災者と話し合った。郡山からも自民党の青年局、青年部に所属している市会議員も同行していた。
少なくとも国会議員は選挙というものを通して国民と接している。霞が関に鎮座する官僚との違いがそこにある。
進次郎だって人の子だ。若い感性で、警戒区域を見、見捨てられた牛のことを聞き、相手の眼を見ながら避難している人達と話し合う。
なにか「得るもの」はあったはずだと思う。そうでなければ最低だ。
その様子を伝えるテレビのワイドショー。すぐさま「評論家」なり人を登場させ、コメンテーター含めて「参院選目当て」という。
それはそうであるかもしれない。だったらそうでも良い。“視察”の結果がいかされればいいのだ。
なんでも「政局」に絡める論調には違和感がある。深読みは大事なことだ。政治を読み解くには深読みが要求される。
しかし、福島県民は、被災地の人達は、その実態を知ってほしいのだ。だからと言って進次郎が来たということでそれに群がるカメラマンの多さにもこれまた違和感を覚える。
彼を「スター」扱いしてはならない。論の立つ、もしかしたらこの国を将来背負う政治家になるかもしれない。スター扱いをすることは彼を潰すことになる。
父、純一郎は「自民党をぶっ壊す」と連呼した。しかし、自民党は「ぶっ壊れなかった」。
政治家の世襲をめぐってはさまざまな議論がある。子が親をそのまま受け継いでいる奴もいる。反対に父をアンチテーゼの如くに据え、別の政治の道を進もうとする奴もいる。
昨日、小泉の同行した政治家、それは市会議員のレベルまで含めて、どう受け止め、どう感じ、どう伝え、何をもってそこを支援するかということの一語に尽きる。
今更進次郎個人が人気取りに走る必要はない。
そして摩訶不思議な光景。テレビが映し出す光景。進次郎が主役であり、復興大臣はかすんでしまっている、なんとか大臣の女性も刺身のツマの如くであったという光景。
進次郎は世代として原発推進に大きく動いていた時代の自民党の政治家ではない。しかし、彼が述べた“謝罪”の言葉を信じたい。
彼らを受け入れた被災地に人の声はさまざまだ。避難民となった人達にとっては政党は関係ない。“解決”してくれる人なら誰でもいいのだ。
自民党員である県内のある首長は「平野復興大臣には世話になった。よく話しを聞いてくれた」と評価していた人もいる。首長ですら思っている。政党がどこかよりも、何をやってくれるのかだということ。
福島県における選挙は難しい。選挙と言うより政治か。双葉町の井戸川町長の不信任、辞任劇がそれを象徴している。
与野党問わず、政治家は皆警戒区域の中に入るべきだ。それは使命だ。そこに入れる特権も持っている。そこで見聞きしたことを素直に伝える、政治に反映させる義務がある。見た以上は、それに対する答えを用意する義務がある。
その意味では、もう数回入ってはいるものの、進次郎は、みずから「大きな枷」を自分にはめたと思うべきだ。
見るべきものを見ること。聞くべきことを聞くこと。それを怠ってきた政治家。
仮に、今年を「復興元年」だと言うのなら、進次郎よ、キミはこれから何を為すのか。見て見ぬふりでないことを願う。
次にすることは何か。原発の中に入ること。そこにある“隠ぺい”を白日のもとにさらすこと。キモの立場ならそれが出来るかもしれない。