きょうは木曜日。いつものようにNHKの被災地からの声を見る。そして自分を覚醒させる。
あらためて言う。この番組はテレビがやる「仕事」であり、「役割」なんだと。
今日は都路と大熊の人の声。
「涙が枯れるほど泣いた」「仮設で死ぬのは嫌だ」。姥捨て山という言葉も飛び出してくる。
「だらだらしてねえで、早くやってくれよ」。そうフリップに書いた人。
スピード感をもった政治、ワンストップの政治。誰だっけ、これを声高に言った人は・・・。
テレビ業界にとって怖い数字。視聴率と売上げ。民放のことですが。
そしてこの二つは完全にリンクしているということ。だから、なんでもかんでも「視聴率稼ぎ」と括られて揶揄される民放。今やNHKも視聴率戦争に参入してきているが。
もう一つ怖いのがお役所。テレビは免許制。5年に一度の免許更新をうけなければならない。免許を与えるのは総務省(郵政省)。各地域の電監、電波監理局が管轄。更新時の書類作りは大ごと。局の担当の人の労苦は見るに余りあり。
何回も書類を出したり突き返されたり。鬼の電監。仙台にある東北電監に何回か行ったかな。
民放も最初はVHF局。その後、平成にかけてぞくぞくUHF局誕生。三流官庁と言われた郵政省はテレビ局の免許を持っているということで目立とうとした。
余談、その官庁出身で放送行政局長やっていた人が郡山市長選に。こりゃ怖いぜ(笑)。
で、本題。
視聴率を稼ぐためにはどうすればいいか。視聴者受けする番組をつくればいい。
よく言われたセリフ。「旅・グルメ・温泉」。
今やまた、その手の番組が復活してきた。
そしてお笑い。どの局をみても同じ顔触れで、そのうるさいこと、うるさい事。嬌声を聞かされるためにテレビ持ってるんじゃない。って言いたいような。
テレビの劣化ということがよく言われる。テレビが視聴者にすり寄っているという前提に立てば、テレビの劣化とはすなわち視聴者の劣化ということ。
それはドラマに於いても然りだし、ニュースのネタにしても言えること。
送り手と受け手の意志を合致させるのは難しいことだが、そして広告代理店、スポンサーという「大事な」ところの意向に背かないで出来るかどうかは難しいとおもうものの、民放とて、そろそろその主体性を発揮すべき時にきているのかとも。
数十時間にわたってノーCMで報道に精を出したテレビ。それは死活問題につながったかもしれないが、あの「3・11」はテレビの在り方を変える好機だったのではないかと。
「変わらなくては」とテレビは訴えていた。「変わるべきだこの国は」とも訴えていた。それが今は・・・。
視聴者とは「浮気者」である。それの意向を忖度し、それに“迎合”しているとある日突然裏切られることだってある。
映像を伴った媒体として、伝えなければならないものを伝えるようなテレビに生まれ変わってはいかがかと。
広告代理店が提供してくる「数字」に脅かされるのではなく。それを信じるのでは無く。
重ねて言う。テレビと視聴者。それは「劣化」を共通項とした合わせ鏡だと。
例えば一つの提言。今、デジタル化によって空いているチャンネルが、まだあるはず。売れてしまったかどうかは定かでないが。
NHKを主体にして、「原発チャンネル」を作ってみてはどうか。
東電の「ウソ」がまた一つ発覚した。国会事故調もいわば東電の手玉に捉えた。面目まるつぶれだ。
情報開示をめぐる東電幹部の動き、言動。なぜそこまでやらないといけないのか。国権の最高機関さえ馬鹿にされたのだ。事故調を復活させ、国会議員全体の問題として現場に乗り込んでみてはどうかと。
日々、東電では会見が行われているはず。その内容は、特に変わったことが無い限り報道されない。しかし、我々は気になっている。
少なくともボクは毎日「ふくいちライブカメラ」の映像を見ている。
原発に関する様々な動きがある、会議もある。それらをそのまま放送し、まともな解説者をつけて放送するチャンネルがあってもいいのではないかと。
東電の「うそ」も、もっと詳細に伝えられるはず。
およそ原発に関わるあらゆる情報を提供するチャンネルが必要なのかもしれない。
それをテレビがやらないから、テレビは隠している、本当の事を報道しないなんて“汚名”を着せられ非難される。ネットの流れるデマやウソを放逐するためにも、そんな「テレビ」が必要なんだと。その試みは、多分、諸外国からも“評価”されると思うのだが。
事実を伝えているということに対して、監督官庁含めて、“統制”のような動きがあり、放送免許取り消しなんてことがあったら、それは、もうこの国が、大いなる後進国との国際的汚名を着せられるだけなのだから。
規制や圧力をかけてくるかもしれない「権力」ほど、実はテレビに出たがっているという図式だってあるのだから。
何も反権力になれだのなんだの物騒な事を言っているのではない。もっともっと「知らせる努力」をしないのかなって言うこと。
テレビによって知り得ることはもっともっと有る筈だということ。