「うたかた」ー例えば方丈記。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びてひさしくとどまることなし。そう、泡沫。泡、バブル・・・。
そして例えば、うたかたの恋。消えやすくはかないことのたとえ。
きょうは11日。あれから1年1カ月。その年月は、日数は、まさに「うたかたの如く」消え去ってしまっているような。
そしてきょうは建国記念日とされている。その制定にあたって、当時、国論を二分するかのような議論が交わされていたこと。国会の中が荒れに荒れたこと。
そんなことを知っている政治家はもういない。
建国記念日。建国の意味を問え。考えろ。
被災地をとりまく「うたかた」のような感情や心情。その地を、そこに生きる人たちを真に思うために、自分の心に凝固剤でも投入して「とどまらせたい」と思う。それは情緒的な感情論では無い。同じ時代を生きている者同士としてだ。
あの方丈記の時代も、平成と言う今の時代もなにも変わっていないということ。
人の世の流れというものは。
変わったのは「方丈」に等しい仮設住宅なるものに住まざるを得ない人が生まれたこと。鴨長明のように自らが好んだのではなく。
そして便利な物を手に入れた“快適”な生活を送っている人たちは、それのはかなさに気がついていないということ。
まだ平成バブルの時代だったか。首都機能移転という話が連日話題になっていた。福島県もその候補地の一つとされた。かつて、その当時の知事さんが言っていたのかもしれないが。阿武隈高地はその岩盤の強さからいっても最適だとされ、誘致運動が活発に行われ、旗を振った県民も多数いた。
それこそ「バブル」。国家的詐欺。県民詐欺。
首都直下型地震が・・・とマスコミが騒ぎ、事実、あちこちで地震が起きているにも関わらず、「首都機能」は、そこを頑として動こうともしない。守れると思い込んでいるし、そこが至上の場所だと思いこんでいる。
その頃、それに呼応するかのように「ふくしま未来博」なんていうのが催された。福島空港周辺の山林は切り倒され、なにやらわからない施設が作られ、皆、一炊の夢に酔っていた。その跡地に首都機能が来るかのような“錯覚”にもとらわれながら。その博覧会の総合プロデューサとされて人はいま、どこで、何をしているのだろう。
東京の人だった。
ちょっと前の、福島の「うたかたの記」、「うたかたの姿」である。
県は多分大きな赤字を計上したに違いない。施設建設を巡って、あらゆる“利権”が、そう、行く川の如くに水かさを増していたかもしれない。
そして、その「利権」は、新たな“復興バブル”という現象の中で頭をもたげている。
誰も答えてはくれないだろうが、あらためて問う。「復興」とは何を言うのかと。
経済成長を至上命題に掲げた政権が、高い支持率を得ていると言う。
例によっての“世論調査”なるものだが。その調査結果が報道される。大方の国民には刷り込まれる。
皆が支持している政権なのだなと。付和雷同が好きな人たちはそれに乗る。
立ち止まって考えることをしなくなった日本人。この国は「何処へ行く」のだろう。
バブルの再来にまたもや酔いしれるのか。
今の日本人の必読の書。それは「方丈記」だと思う。くだらない啓蒙書の類では無く。
鴨長明が書く、その「都」の姿は、今のこの「国」とそっくりなのだ。
何百年も前の書は今を綴っている。
日本人の精神史。歴史は古い。しかし、新しい。昔の言葉は、今を語っている。
昔に対する確固たる認識なくして、なんぞ、未来を語れるのか。
「ここより下に家を建てるな」。そんな碑が残されている。苔むすように。それを書いたのは福島県人の山口弥一郎。
そんな「古語」を知っている人とて少ない・・・。彼は「うたかたの人」ではなかったはずだが・・・。
うたかたーー。
政治家・・・政治・・・そうだな。みんなある意味「泡沫」だよな。・・・と。
11日。不明者の捜索は続けられていると聞く。祈る。亡くなった方たちを「うたかたの人生」として葬りたくないから。
そして思う。あの日、原発事故を必死で食いとめようとしていた多くの人達がいたことを。うたかたで終わらせてはならない。
放射能が降った。その事実を「うたかた」での語り草にされてたまるかということを。