袖ひじてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらむ
古今集の紀貫之の歌。まだテレビが我が家に無かった頃、こんな短歌や詩を生意気にも「楽しんで」いた。そして、その頃覚えた歌や詩をなぜかはっきり覚えている・・・。
「テレビが出来ることをやろう」「テレビにしか出来ない事をやろう」。
福島に来て、若い子達に日ごと口癖のように言っていた“思想”。
テレビの仕事のおもしろさを知ってもらうためにも。
ある番組を立ちあげた。それは土曜日の早朝。最初は30分、やがて1時間の生番組。「あおうえお天気目玉焼き」。目玉焼はLサイズにもなり。やがて高視聴率番組、ローカルとしては在り得ないような視聴率をとるようになった。一時は30%近くも取ったような記憶。
その番組は徹底的にナマにこだわった。スタジオも生、毎回生中継。出演者、スタッフにも恵まれていた。ボクの“思想”を理解してくれていた。
自慢話をするわけではない。
「お前はただの現在にすぎない」。そこで繰り広げられていた草創期のテレビマン達が交わしていた議論がテレビは「生」であるかどうかという事。
ドラマも生だった。中継車が完備されていない中でも、彼らは「生」を求めていた。局内には安易に再生できる録画設備はなかった。
もちろん家庭用録画機なんて普及していなかった。
街頭テレビのプロレスもプロ野球も生だった頃。
ローカル番組に話を戻す。当時、A-SATという衛星中継車が各ローカル局に配備された。しかし、それはローカル局用のものではなく、なにか事件や事故があって「上り」というテレビ朝日に上げるための衛星中継車だった。
ローカル局がローカルのために使用することは許可されていなかった。
「いいから使え」。毎週、文句を言われながら、時には脅されながらも、テレビ朝日に連絡して、他曲との競合がないかを確かめながらSAT車を使った。
県内のどこにでも行った。
テレビに出来ること、テレビにしか出来ない事。その一つが「生」だと思っていたから。
数年間続いたその番組にある日「休止」命令が下る。当時、朝日新聞から来た社長の意向。自分が赴任する前の、前社長の“功績”とされてものは番組含めて消したかったから。
「もういいじゃないか。初期の目的は達したじゃないか」。政治部時代、仲の良かったはずのその人から下されてご託宣。
営業的にも折り合いはついていたはずなのに。
「社長さまは神さまです」。スタッフと飲んだ酒は苦かった。その味を覚えている奴もまだいるはずかと。
東京から来た人間がSATの使用も含めてローカルの立場に立つ。かくも中央集権的なテレビの習慣をぶち破る。ローカルにはローカルとしての生き方がある。見事に“変身”していたセガワケンイチくん。
仙台の局をキーにして、各局持ち回り形式で、日曜の昼に番組を作った。
「東北独立テレビ」という番組名。その後「テレビ・イーハトーブ」と名を変えたが。
東京にいて感じるテレビ観とローカルが感じるテレビ観には大きな差がある。ことごとくローカルを抑えようとする東京。それになんとか反抗しようとするローカル。キー局からの風当たりは凄かった。もちろん受け止めたけど。
この一つの懐古談、「3・11後」の、今も潜在化し、時には顕在化する「東京」と「東北」という対立の図式、構造に通じるものがあると思ったから、敢えて書いてしまった。
「向こう側」と「こっち側」。敵対すべきことでは全くないのだが、埋められない溝。
テレビ論に戻れば、テレビ局と視聴者と。テレビを通しての「向こう側」と「こっち側」。そこにある溝、乖離、意識のずれ・・・。
それを埋める作業がこれからのテレビに求められる。何回も書いている「被災地からの声」というNHKの良心的番組が、全国ネットには決してならないということも一つの例。
昨夜見たNHKのキャパをめぐるドキュメンタリー。表現方法としてのテレビのチカラを垣間見た。
テレビについて書いていかなければならない。勝手に“自縄自縛”。