2013年2月26日火曜日

「古いものが新しい」ということ

温故知新という言葉ではないけれど、昔からいい習わされて来た言葉はその価値観も含めて、いや、言葉だけじゃない、風俗・習慣も含めて先人の残した言葉は「意味」を持っていると、つくづく思う。

昨日、コミュニティーという言葉へのいささかの疑義を書いた。相変わらず、マスコミの世界では、メディアの世界では、そのコミュニティーという言葉が幅を利かしているようだ。

被災市町村から人口流出が激しい。それにマスコミは警鐘を鳴らす。地域コミュニティーが崩壊すると。

今朝、仮設に寄ってコミュニティーという言葉を使ってみた。チンプンカンプンだ。
「一定の地域に居住し、共属感情を持つ人達の集団、地域社会、共同体」。ばあちゃんが持っていた辞書を引いて見せる。
「なんだい、おら、難しい横文字はわかんね。部落の事だべ」とおっしゃる。

そう「部落」でよかったんだよ。その表現の方がいろんな意味でぴったりくる。
いつの時期からか、戦後しばらく経ってからか。都会では「部落」という言葉は、「差別」の代名詞とされ、少なくとも放送禁止用語とされ、それに代わって横文字が登場した。集落と部落を置き換える。やはり伝わり方が違う。

被災地の首長さんたちも、皆、よく使う。コミュニティーと。「持ち込まれた言語」という印象を持つ。

災後、多くの人々は、心の支えとしての「言葉」を探していた。
「がんばろう」「絆」「ひとつだ」・・・。
言ってみれば空念仏。

怖いもののたとえ。地震、雷、火事、おやじ。だった。まさにその通りだったが、今を生きる人達は、そんな古い言葉、表現をゴミ箱に入れてしまい、新しい言葉、科学的な言葉、識者が使う言葉に「同化」されて行ってしまった。

ちょっと前か。いくつかの諺を引いて世の中に譬えてみた。諺、ほとんど“正解”なのだ。政治家は「羹に懲りて膾を吹く」し、「眼くそ鼻くそを嗤っている」し。

例えば論語や、南州翁遺訓に回帰しろとは言わない。災後だからと言って新しい言葉を探す必要はない。
身の回りにある、親や祖父母が言っていた言葉を思い出してごらん。そこには「真実」や「真理」が隠されているから。

新しい生き方を求めたいのなら、方丈記に回帰してみればいい。今の時代に適応する生き方が書かれているから。

新しい言葉が闊歩するネット社会でも、時々誰かが引っ張り出している言葉は、「古い言葉」「古い格言」だということ。

高校生の時代から、ボクにとっての音楽は基本的にジャズだった。デキシーランドからはじまってシカゴやカンサスのフルバンド、そしてコンボのイーストコースト、ウエストコーストジャズ。
曲も歌も。

いつしかジャズはすたれた。4ビートに飽き足らない人達が8ビートから16ビートへと。

そしてまた、いつの間にかジャズは「復権」を果たしていた。ジャズが好きだという青年に聞く。なんでと。「新しいです、新鮮です」と言われた。

古いものは新しいのだ。

「ここより下に家を建てるな」。大震災後、見つかった標識。苔むした石碑。
それは忘れ去られていた。福島県人、山口弥一郎が建てたと言う碑。
「津波てんでんこ」だけは生きていたのかどうか・・・。

古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよということなのか。

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