2013年3月1日金曜日

「原発」は止まらないものなのだ

原発は止まらない物なのだ。止められない物なのだ。まるで“魔界”のような。

安倍は昨日の施政方針演説で“原発再稼働”を明言した。「東京電力福島第一原発事故の反省に立ち、原子力規制委員会のもとで、妥協せずに安全性を高める新たな安全文化を作る。安全性が確認された原発は再稼働する」と。そして、言い訳のように、「省エネルギーと再生稼働エネルギーの導入によって、原発依存度を出来る限り低減させる。同時に、電力システムの抜本的な改革に着手する」と付け加え。

何故再稼働なのか。それに至る前後の脈絡が読みとりにくい。
「長引くデフレからの早期脱却に加え、エネルギーの安定供給とエネルギーコストの低減に向けて、責任あるエネルギー政策を構築する」。前段にあるパラグラフがその再稼働の理由ということか。

経済成長のためには原発は不可欠なものということなのだろう。

この国の在り様として、政治の在り様として、原発は「必須」のものなのだ。
再稼働に向けての様々な動きが加速するだろう。

原発とは「さよなら」出来ない国なのだ。

一昨年の3月11日夜以来、1Fは不穏な動きを始め、現場にいた人達は、その“暴走”を止めようと必死の努力を続けた。
“決死隊”という言葉も生まれ、アメリカからは「フクシマフィフティーズ」とも呼ばれた人達の命をかけた行動があった。
自衛隊の決死の活動も、東京消防庁の課した使命もあった。
社員を鼓舞し、決断した吉田昌郎所長も。爆発を止めるべく動いた社員のほとんどが、地元の人間だった。原発を知悉し、その事故が自分たちの家族や故郷を壊してしまうことを誰よりも、どんな学者よりも知っていた人達。

しかし、彼らの努力をしても、原発は止められなかった。その暴走は止められなかった。

首相の施政方針演説。それは年一回、通常国会で行われる極めて重大な施策の表明。歴代首相は、そこで何を言うかに意を用いる。もっとも、その草稿は自分で書いたものではない。秘書官であるとか、今なら補佐官や参与など、「官邸スタッフ」と呼ばれる人達が寄り集まって作ったもの。首相は読みあげるだけ。

しかし、その裏がどうであろうと、それは安倍自身の演説として後世にまで伝えられる。そこに書かれ読み上げられたことは彼そのものでなければならない。

東北について彼はこう語る。
「間もなく3月11日がやってきます。厳しく長い冬が続いた東北にも、もうすぐ春が訪れます。冬の寒さに耐えて、春に咲き誇る花のように、新たな創造と可能性の地としての東北を作り上げよう」という。他人事に聞こえる。

「日本は瑞穂の国です。息を飲むほどに美しい棚田の風景、伝統ある文化、若者たちがこうした美しいふるさとを守り、未来に希望を持てるように・・・」。

全てを原発が奪ったのだ。美しい棚田の風景。それが、あの地に戻るとでも思っているのか。

演説の冒頭では、福沢諭吉の言を引いた。演説の結びでは貝原益軒の言をも引いた。しかし、それらの引用は、自らの思想を正当化させるための“つまみ食い”のような感がある。

我々は何のために国会議員を志したのか。それは、この国を良くしたい、国民のために尽くしたいとの思いからであって、間違っても政局に明けくれたり、足の引っ張り合いをするためではなかったはずです。最後の項でこうも述べていた。

のど元過ぎればなんとやら・・・。そっくりお返ししたい言葉だと思ったけど。

良い演説だったと思いますよ。オバマや鳩山に負けず劣らずの。しかし、政界の通例。演説通りに政治が進んだ試し無し。羅列された“政策”の数々が。

一つだけ言えること。福島や東北にどう言及しようとも、原発再稼働への道筋を付けたということ。それだけは事実だ。いくら“デモ”をしても変えようのない事実。あれだけ反対闘争があても祖父が安保改定を実現させたのと酷似して。

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