2013年6月4日火曜日

続 この国の姿、その1 “悲しい一つの実情”

一昨年の3月19日以降、連日「この国の姿」という括りで、様々な事を書いてきた。途中で他の話題にもふれたりしたが4月にわたって連続20回。

また、あらためてそんな括りでしばらく書いてみたくなった。この国のかたちではない。“姿。日本人は何を考えどこに行こうとするのか・・・。

時折見えてくる日本人の醜さと美しさ。

きのうも書いた。復興予算の流用問題。「基金」というザルの中に金を放り込み、およそ被災地とは無関係なことに使われる金のこと。

この余りにも醜い実情を暴いたのはマスコミだ。一社が抜き、他社が追随したとしても。マスコミが暴かなければ「知らぬが仏」とばかり、「濡れてにあわ」とほくそえんでいた輩がいたはず。

もちろん、どうにでも読みとれるような「霞が関文章」で書かれた法律。抜け道はいくらでも見つけられる。どうでも勝手に大義名分らしきもの、真っ赤な嘘で塗り固めた理由づけを出せば金がころがりこんでくるシステム。

驚きました。山口県のゆるキャライベントにまで使われていたとは。
テレビのキャスターや解説者は、「出」の政府をここぞとばかりに責める。それは間違っていない。現に慌てた政府、特に財務省は、基金の「凍結」を言う。
臭いものに蓋ってことだね。

もちろん根底は「出」の政府にある。しかし「入り」の地方自治体はどうなのか。その金が復興予算の付け替えであり、流用であり、ちょっとやましいものだと思っていても戴いてしまう。その「貧乏人根性」が嫌なのだ。

たしかに地方財政は苦しい。住民サービスを考えれば喉から手が出るほどの金だったのかもしれない。

だけど、それは「やってはいけないこと」なのだ。同じ地方公務員として、被災地の公務員がどれほど苦労しているか。昨日も書いたが、あれは大槌町の話しだけど、応援派遣されて被災者と向き合ってきた人達もいる。
金をかすめ取ると言う悲しい実情・・・。そこの住民はどう思っているのだろう。

その地域に住む住民たちは、その地域の行政の在り方を「是」とするのか。

3・11を機会にこの国は、国民の多くは「変わる」ことを誓ったはず。喉元すぎればなんとやらってことなのか。

中央から地方へ。住民から行政を。そんなシステム変更の兆しが生まれてきていたような気がしていたのだが。

今朝もライオンズクラブの役員をしている人から電話があった。ある県のライオンズクラブから郡山の子供達のために役立てて欲しいと言う義捐金送付の話し。

民はいまだ、支援を惜しんでいない。

何も積極的に支援してくれと他の自治体に言うつもりはない。しかし、「心を寄せる」とか「つながっていこう」と“謳い文句”だけでも言うのなら、「かすめとる」ようなことをしてはならないはず。
手を出さない、金に手を付けないことが間接的「支援」なのだと。

知恵を巡らせばカネが転がり込んでくる。そんな“役人根性”が嫌だ。それに甘える住民が嫌だ。いたとすればだが。

郡山市では、今年度はどうなったか知らないが、数年前から役所の職員を年間5人、民間に研修に出していた。そういう制度があった。
民間企業に行って金をどうやって稼ぐのか体験して来いと。役所の論理にはまってないで「民」の空気をしみこませて来いと。

およそ役所では体験できない地味な仕事をこなしてきた若者を知っている。民に出たことで彼の視野は広くなっていた。役所に戻っても「民」と直接接触出来るような“地味”な仕事、役目にいそしんでいる・・・。

この国が姿を変えることの一つ。まず挙げよう。社会システムの変換なのだと。

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