2013年6月6日木曜日

続 この国の姿 その3、“ネット支配”

参院選が近づいて来た。今回からは「ネット選挙」なるものが解禁される。
それを巡って「当事者」達は右往左往しているご様子。なんとも御苦労さまと申し上げるしかない。

10年前位に、ITを「イットとはなんだい」と言った総理大臣がいた。ITはたしかに「革命」だった。

IT,インターネット、その隆盛ぶりを見るにつけ、テレビの姿と重なるところがある。世代の問題だ。

読み書き算盤で育った世代は、たしかにものごころついた時からラジオはあったが、テレビと始めて接したのは小学校の高学年か中学時代だったか。

縁あってテレビの仕事を長年やってきながら、「活字」に慣れ親しんで来た身にとっては、その世界のど真ん中に身を置きながらもテレビという文明の進歩によって出来あがったテレビという媒体には、どこかいつも“違和感”のような物を持っていた。

生まれた時から家にテレビがあった人達と、後からテレビが来た世代には、どこか“差”がある。お互い埋める努力はしても。

生まれた時から、いや、学校の頃からネットというものが身近にあった世代とテレビしか知らない世代にも、その人それぞれの習熟度や関心のある無しにもよるだろうが、“差”があるとも感じる。

いくら時流であるとはいえ、それが世界の潮流であるとはいえ、地盤・看板・カバンの選挙をやって来た人は戸惑いを隠せないだろう。電信柱まで頭を下げ、握手し回る選挙をやって来た方には・・・。

ネット選挙解禁。それは候補者のためのものか、有権者のためのものか。まずはその出発点が僕にはわからない。有権者のためというなら、投票までネットにしないと尻抜けのような気がするのだが。

ネットとは言ってみれば、受けて側のアプローチがあって成り立つ物。ネット選挙解禁しても候補者のHPや、ブログ、SNSに有権者が接触しなければ、その“媒体”としての機能はどうなるのか。

「3・11」以降、国民の選挙に関する意識は急速に薄れている。どこでも低い投票率。識者は言う。若者の選挙離れだと。ネット選挙を、中途半端な形で解禁して、どれほど若者を呼び戻す効果があるのだろうか。

ローカルの話しで申し訳ないが、郡山の市長選、元郵政官僚で、そこそこネットを使いこなしている人が当選した。その後どうなったかは知らないが、市役所の中に「SNS課」というものを作り、職員全員にアカウントを持たせると言っていた。
片や敗れた前市長の側は全くネットに関して、その存在を含めて“音痴”であった。若者はネットを駆使した新市長の側に投票したのか。“ネット仲間”という“親近感”の中で。

仮設に暮らさざるを得ない高齢者。安否確認の意味も含めてタブレット端末が自治体から配布されている。「便利になったもんじやな」とテレビの取材が入った時にはそう感想を言う。果たして活用しているのか。
その端末とネット選挙とはどういう連関性をもつのだろうか。

参院選。その比例区、昔は全国区。ある時から、その人の政治家としての力量はお構いなし。数合わせの手段として、いわゆるタレント候補なるものがどんどん出現して行った。何も運動をしなくても知名度だけ抜群な。それが政治をどう変えてしまったのか・・・。

維新、橋下代表は「タレント候補」である。テレビタレントだ。弁護士であっても、いささか政治を語れたとしても。
その維新からアントニオ猪木が出るという。もう、何をかいわんや。やめとけ。

彼は確かに参院議員だった。スポーツ平和党なるものを作って。その舞台を作ったのは彼のマネージャーをやっていて政界とコネを作ることに執心していた新間寿。猪木がどんな政治活動をして実績を挙げたか。

知名度やタレント、人気投票。それとネット選挙とは、どっかに似通うものを感じてしまうのだが。

ネット選挙に血道をあげる前にやることがある。国会改革、選挙制度改革だ。
ネット選挙解禁、それは、今の議員たちによる、自党を利そうとする単なる“
戦術“にしか過ぎないと言わせておいて貰おう。

様々「ネットに支配されている世界」の中で、「ネット」の思うこと多々ありにて。

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