2013年9月18日水曜日

「3・11」と司法

この頃、「あの当時」のことを書いた本を何冊か読み返している。津波の被害にあった人の話、かろうじて逃げられた人の話、飯舘村のこと・・・・。

石巻の日和幼稚園の園児5人が亡くなった事故。津波が来なかった山側に住む園児、幼稚園も難を逃れた。海側に住む園児を送り届け、山に向かう途中渋滞に巻き込まれての悲劇。

仙台地裁は幼稚園側の判断ミスや失態を認定し、1億7千万の上る賠償を命じる有罪判決をくだした。

一般的には裁判は「被害者」と「加害者」がいて成り立つ。判決は証拠に基づいて下される。
亡くなった園児や遺族は明確な「被害者」である。幼稚園側は「加害者」なのか。
判決は「状況」や「予見の無さ」をもって有罪とした。「あんな津波が来るとは思ってもみなかった」。そういう幼稚園側の主張を退けた。

的確な判断と想像力があれば事故は防げる。悲劇に対応できる。早く心配している親元に届けたい。たしかに一理はあるが。

釜石の奇跡といわれる事例。群馬大学の片田教授が釜石の小中学生にずっと押して続けていたこと。学校側もそれに従ったこと。そのことは父兄にも周知徹底されていたこと。

「てんでんこ」に高台に逃げた子供たちは、上級生が引率するようなかたちで、間一髪、被害を免れることが出来た。

こんな教育が、石巻の幼稚園で、先生にも、父兄ににも周知されていれば、バスは海側には向かわなかったはず。

判決は「情報収集に落ち度があった」と結論つけている。“情報収集”の以前の問題を釜石の事例は立証している。

「想定外」に対して初めて示されて司法の判断だと思う。そして、明らかに、関係者の「判断ミス」があったのだと思う。

翻って原発。東電の会長や社長、菅直人、海江田、枝野・・・。判断ミスを繰り返し、想定外を言い続けた人達の責任を問う告訴。検察は不起訴とした。

司法の場で争うことを避けた。政府の事故調も、国会の事故調も、その結論は隔靴掻痒。司法の場しかないのだが。

司法が「なじまない」とする限り、原発事故の責任は藪の中、闇の中に葬られる。

明らかに想像力の欠如があり、判断ミスがあり、機器の操作ミスだって、そう、あのベントの弁が開かなかったこと含めて。それが問われないという事。

政治の判断ミス、想像力の欠如によって、関連死という事実が存在していること。それは明らかに“未必の故意”にあたることとも思えるのだが。


人の命は金に換えられない。誰しもがそう言う。その口の乾かぬ先から賠償金の金額を言い立てる。おぞましい・・・。それでしか「計れない」のだ。

福島では「ゼロ円訴訟」というのもある・・・。

「3・11」はあらためて多くの教訓を残した。それが生かされるのか生かされないのか。せめて“原点”だけには立ち返って欲しいのだが。

その「行方」を語りたくはない・・・。

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