福島という県土を、いや、国土を、「汚染」から取り戻すためには“除染”という方法、屋根を拭き、木々を切り倒し、土を剥いでいく。緑を土色に変える。
それしか方法が無いのだろうか。
例えば、時々取り上げさせてもらう飯舘村。
「心も体もボロボロだ」。菅野典雄村長がきのう言っていた言葉である。
までいの村。までいの力。一昨年、菅野村長が書いた本。「日本一美しい村に放射が降った」。
なんで飯舘にこだわるのか。そこは、川俣町の山木屋地区と並んで、「原発」からは何の恩恵も受けていない、その地が、情報過疎の中、ある時期まで“放置”されており、「理不尽」さを象徴している村であると言えるから。
3月15日。飯舘村役場の空間線量は毎時40マイクロシーベルトだった・・・。
その頃の郡山。場所はまだらだが、3~4μSだったと思う。
一昨年、東京の霞が関で行われた会合に、講師を依頼され、1時間余り話をした。相方は元岩手県知事の増田寛也氏。
「までいの力」という村が出した本を携え、被災の実態よりも、村長の言を紹介した。
「やむを得ず全村避難することにした。帰村の目途は3年とする。3年後に皆、この村で会おう」。
3年―。汚染の実態からして2年での帰村は無理だ。しかし、5年とすれば村民の心が持たない。その長さに耐えられない。3年ならどうにか耐えられる。そう判断したという話。
その頃、国の指導者の力量の無さに怒りを彷彿させていた時。どうにかして村をまとめたいという、それがたとえ”ウソ“であっても、目標を示すことが、何よりも村をまとめていくために必要だったという判断と決意。
菅野村長も言っていた。「特段、科学的根拠とかがあっての事ではない」と。
菅野村長の願いは届かなかった。あと半年で3年。
いわゆる「除染」がなされたのはたったの3%の面積。
5年後を目途にした。平成27年の帰村。住民の心は割れる。諦めが支配する。
村長も批判の矢面に立たされることになる。
それでも諦めなかったのだが・・・。
環境省は、言葉や言い方はともかく、「ギブアップ」宣言。除染がはかどる目途は全く無くなった。
淡々と他人事のように「除染計画」の遅れをしゃべる環境大臣。村を訪れる環境省の職員も、いつからどうする、いつまでに。喋れない。
仮置き場がどうだ、中間貯蔵施設がどうだ。不可能な条件だけを探して、それを盾にして、国の不作為を取り繕う。
そもそも、あの広大な地域、除染ということで片付くと思っていたのだろうか。その除染なるものが「可能」だと思っていたのだろうか。
全くの机上の空論だったと言わざるを得ない。
空論に村民は「だまされた」。
飯舘村は、たぶん、このまま放置されるのだろう。国から。棄村だ。
7年後、それに向けて東京は湧きかえり、インフラは整備され、高速道路は補強され、オリンピックを”ダシ”にした金儲けが横行していくのだろう。
約20日間の夢の祭典。
7年後、飯舘に人はいるのだろうか。居るには居る。ごく少数が。子供の声は無い。生業を奪われた農夫は、「汚された」土を握りしめて、ただ立ち尽くしているのだろう。
たった「250キロ」の、この“距離”の差異。そして人の心を支配する様々な摩擦と軋轢。
飯舘は「おもてなし」に長けた村だった。
2013年9月12日木曜日
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