今朝の地元紙の一面みて驚いた。言ってみれば目を疑った。
「学校の汚染土、搬入対象外」。
つまり中間貯蔵施設には学校の校庭に埋められている汚染土は、中間貯蔵施設には持っていかないということだ。
2011年を思い出す。5月だったか。6月だったか。
郡山市の薫小学校界隈は、いわゆる「ホットスポット」と言われた。
一帯は線量が高い地域だった。
当時の郡山市長は、いわば“独断”のような形で、校庭の表土剥ぎ取りを行った。それに対して国や県からは、“異論”が出された。“反発”された。
でも、やった。
校庭の隅には一時、剥ぎ取られた土が積まれ、ビニールシートで覆われた状況があった。
それを写真に撮って、「子どもを放射線の中で遊ばせている。子どもを殺すのか」などと言った投稿がネットに氾濫していた。
1年後もその写真は晒されていた。その度に郡山は揶揄されてきた。
やがて表土剥ぎ取り方式は県内の各学校で行われるようになった。地中に埋められた汚染土。
それは、あの時はそれ以外に方法は無かったのだ。校庭で子供を、たとえ時間制限をしたとしても、遊ばせる、走らせる、運動させるためには。
そして、その土は、やがてどこかで「処分される」と多くの人が思っていた。
中間貯蔵施設問題が俎上に上り、そこに、汚染土は運び込まれると思っていた。
うっかりしていた。その時に出来た法律をよく読んでいなかった。
2012年1月に出来た法律。放射性物質汚染対処特別措置法。その施行令では、法律が出来る前に生まれたものは搬入対象外とされていたのだ。
それを知っていた県は反発した。環境省は、そのまま店晒しにして、現在に至るってことだ。
関係者は知っていた。多くの県民は知らなかったということか。
中間貯蔵施設は何のために作られるのか。
「見える物」として仮置き場に置かれている黒い袋の山だけを片付ける、持っていくということか。
見た目を綺麗にするための施設かとも言いたい。
汚染が、線量が一番高かった時期に“処分”されたものは、その対象外だという国の考え。納得が出来るはずも無く。
事例は違うが、子ども・被災者生活支援法というのも2012年の6月に超党派で成立している。
しかし、法律は出来たが「魂」は入れずではないが、店晒しにされ、具体的な施行令は出来ず、極端な言い方だけど、ガラスバッジを、個人線量計での測定に変えたというくらいか。しかも「基準値」を引き上げて。
校庭の問題。県の抗議に対し、環境庁も、いささかは忸怩たるものがあるのだろうか。「法律上は搬入対象に入っていないが、法の施行の前と後で差が出るのは非合理な部分もある」として、検討をすると言っているとか。
県は、8月に中間貯蔵施設の受け入れを「苦渋の決断」とかなんとか言って、受け入れている。なぜその時に、国との交渉過程で、校庭の埋設土のことを質さなかったのか。不可思議だ。
こんな「不条理」が、毎日、どこかで、何かの形で露呈している福島。
「子どもたちが安心して遊べる安全な場所、環境」。政治にかかわる人は判で押したようにみなそういう。でもその裏ではこんなことだってあるのだ。
搬入に手間がかかるということか、カネがかかるということか。不完全な法律をたてにとっていればいいということか。
我が家の庭も「除染」された。もともとがたいした線量では無かったが。
作業後しばらくたってから、計測の担当者が来た。赤い印で囲まれた表土を埋設した場所。
「やはりここの方が線量はいくらか高いですね」とその担当者の弁。
「中間」が出来たら、いの一番に搬入するのは校庭に埋められている汚染土ではなかろうか。
国とは、行政とは、かくのごときものなのか。
3年余りのいきさつを知っているはずの内堀新知事は、さて、どう動くのかだな。
2014年10月29日水曜日
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