2014年10月25日土曜日

「自立」と「支援」と

福島を取り巻いている状況や、福島を語るときに、この「自立」と「支援」、あるいは「依存」と言う言葉がついて回る。如何ともしがたく・・・。

「地方創生」が言われる。その「国の施策」に地方がどれほどかかわれるのか。
それに対しての“発言権”はあるのか。

地方創生。或る意味“新語”だ。アベノミクスという造語も闊歩している。なんか、勝手に名づけて勝手に踊っているみたいだ。

「地方」が付く政治には、もういくつも出会った。そしてその「成果」を聞いたことが無い。

地方自治・地方の時代・地方分権・地域主権・・・。それが何をもたらしたのか。過去の亡霊のような言葉。

地方自治。自治とは「自らおさめる」と書いている。中央から、国から、自立せよということなのだと思うが。

物の言いようはともかく、中央は権限や財源を地方に移譲したいなんて思ってもいない。いや、中には地方自治を理解してくれている官僚もいる。しかし、官僚機構はそれを許さない。

他方、地方自治体の側はどうか。国からの交付金・補助金、それをいかに確保するかに汲々としている。支援という名のもとでの。全くの依存の構造なのだ。

新潟県の山古志村。震災から10年を経て、人口は減ったが「自立」を果たした。その住民の誇らしげな表情をテレビは伝えていた。
「地域づくり、それは、村民が自ら立ち上がったことに尽きる。住民の意識の問題だ」という。

山古志村に似た風景の、それは牛の事だけではなく。飯舘村でも、再三、村民が立ち上がり、村を取り戻そうとした。しかし叶わなかった。
言わずと知れた放射能の汚染だ。

除染は国に依存しなければならない。除染と言う名の「依存」。依存体質がはびこる中では、自立する、立ち上がるという意欲はそがれる。

明日は県知事選だ。県知事選の位置づけを「自立」と「支援」という観点から捉える。

誰が「自立」を目指そうとしているのか。誰が「支援」に重きを置いているのか。

迷わず「自立」を県民は選択すべきだ。

なまじっか、政治のプロを自認する県議会議員、市町村議会の議員。あまりにも自立への気概に欠ける。そう見える。
旧態依然とした構図でしか知事選を捉えない。

福島は変わらなくてはならない。全国の範に足り得るような自治体に生まれ変わるべきだ。

過去に拘っていてどうする。選挙が終わってしまったら、また、もとの「つまらない一東北の県」を見なされる。それでいいのか。

「3・11」が突き付けたものを、真正面から受け止めるべきなのだ。そう思う。

そして、それは冷静に考えるべきことだとも。

ネットで見る限り、なにやらおどろおどろしい画像を付けて、相手候補の攻撃に、それも、あまりにも見苦しい言葉させ羅列して。
普通の県民には、それは馴染まない。かえって引く。
昔からある言葉。「贔屓の引き倒し」。

選挙は明日。いまさら何を寝ぼけたことをと言われるかもしれない。

ありふれた、通り一遍の選挙情勢報道なんていらない。

地方自治とは何か。地方の独自性、それこそ“地域主権”とは何か。数時間あれば考えが及ぶはずとも思い。

綺麗ごとを書いているつもりはさらさら無い。まさに矜持を問うているのだ。

そして再度言う。知事選と国策とは別次元ではないと。今、中央にものもうさずしていつ言うのか。いつ示すのか。民主主義で与えられている権利の行使。

山古志村。自立。新潟県。県知事は、国にしかともの申している。だからこそ村に“再生”が、地域起こしが出来上がったのではないかとも。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...