2014年10月30日木曜日

“想像”の街の話し、そして現実

晴れた日、犬の散歩で仮設に行く。なぜ犬を連れてか。
ボクは人相が悪い。ビッグパレットが避難所だった時、ヤクザが来たと思われていたと言うから。

そんな男が仮設を歩いていても、誰も話しかけてこない。
小春日和の日。仮設で佇んでいる高齢者を見かける。
声はかけてくれない。犬がいればニコッと笑い、犬に声をかけてくる。そして人間同士の会話が生まれる。

あとどれくらいあそこに居るのだろう・・・。

久しぶりのような青空が広がっていた。秋そのもの。

帰り道、空を見上げて妄想する。一つの街の姿を。

なだからな丘陵地帯。丘の上には老人ホームがある。介護施設がある。
医療機関も併設されている。

その周りは芝生の公園。丘の下には幼稚園や学校がある。
ちっとした商店がある。

そのホームの食道は誰にでも開放されている。入所者も外部の人もスタッフも使える。安くて栄養価のバランスがとれた食事。
隣にはカフェもある。そこは犬が自由に入れる。もちろん入所者も。

施設の窓は大きく、開ければ手すりのついたベランダがある。

園庭や校庭で遊ぶ子供たちの姿を入所者は見ることが出来る。
公園では、赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さんが散策している。

そこは「開放」された場所。

施設の入所者も、市民も、子供も、ペットも。お互いがお互いを眺められる光景。

子供の笑い声で、入所者のお年寄りも、きっと笑みがこぼれるだろう。遊ぶ姿は老人を癒すだろう。老人だけの空間はより老けさせる。

食堂は、それこそ「タニタの社員食堂」のように、栄養が考えられ、美味い。
見知らぬ他人だとて、場を同じくすれば、そこで通い合うものがある。

犬をみれば、触れば、それとても世間とつながっていることになる。

そして、若いお母さんは、年寄りからいろいろなことを教わる。教えることで年寄りの意識も変わる。生甲斐にもなる。
そこに医療従事者も交ざれば、お互いが学ぶことは多いはず。
犬だって、自分の“役割”がわかるはず。

核家族化の時代。社会構造として、こんな“街”が生まれてもいいのになと。

高齢化社会の在り方ではないかなとも。

子どもたちだって、杖をついて歩いている年寄りの姿を見て、感じる物はあるはず。

コンパクトシティー、スマートシティー。そんな議論や構想が交わされている。
そこには、あらゆるものが存在し、お互いを認識できる場であって欲しいのだが。

被災地の新しい町づくりだけの話ではない。この国のあらゆるところで抱えている問題。

老人ホームの料金値上げが俎上にのぼっている。もろもろ、この国の福祉政策は“終焉”を迎えるかもしれない。

さっき、旧知の人と久しぶりに会った。東京の施設に入所していた母親が100歳で亡くなったという。

葬儀までに、10日かかったという。「焼き場」が空いてないからだと。

骨は実家に持って行ったという。実家は石巻。そこに住んでいた彼の弟は、もちろん高齢者だけど、仮設に暮らしているという。
菩提寺も津波に襲われ、住職も犠牲になったという。かろうじて残っていた墓に納骨したと。

前段、後段、脈絡が無い話だ。
でも、どこかで共通しているような話でもある。

行く末・・・・。

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