2014年11月3日月曜日

「ハロウィン」に想ったこと

今日は「文化の日」。それは明治天皇の誕生日だった。文化の日と言う呼称は定着していても、それが明治天皇の誕生日であったということ、かつては天長節と呼ばれていたことをどれだけの人が知っていただろうか。


ハロウィンというお祭り。その「そもそも」を語るつもりは毛頭ないが。その「いわれ」を知っている人はどれだけいたのだろう。
それがケルト人の祭りに由来し、キリスト教的行事でもあるということを。

街は仮装した若者で溢れ、それぞれが、騒ぐぞ、はじけるぞ、楽しむぞ、盛り上がるぞ~~と一夜を過ごしていた。

仮装した若者たちがなぜ街に溢れるのか。仮装の中に自己を封じ込め、“他者”となることによって、何かが発散されるからだろうか。

もっとも、「おばさん達」だって、ハロウインパーティーを催していた。招かれ、致し方なく会場に行ったことがある。誰が誰だかわからない中に。
仮装を促されたが逃げて来たこともあった。
皆、楽しそうだった。

ある種、ハロウインは子供が主役の「お祭り」のはず。そして収穫祭、悪魔払い。子どもにちょっと仮装させ、扮装させ、家族で楽しむのは大歓迎なのだけど。家族でハロウインパーティーを開いて、そこで親が教えればいい。
その行事の由来を。

東京の渋谷に仮装して若者が大集結していた。それが「閉塞感」から逃れるための、ある種の「孤独感」から解放されるための場であったのかどうかはわからない。

とにかく、「祭り」が終わった後はゴミの山だったという。そのゴミを年寄や、その祭りに参加していたかどうかはわからないが、ボランティアの若者が掃除していた。

そこに見えた表面的なことだけ言う。若者の「ゴミ」を年寄が「拾う」ということ。

原子力発電。そこから生み出される光は平和の火と思われてきた。平和のエネルギーと思われてきた。安全なものと思われてきた。

原子炉の中で燃え盛る炎に「悪魔的なもの」が潜んでいるとうことを99%の人は知らなかった。1%の人は知っていたが、それを指摘することはためらわれ、排斥された。

プロメテウスという神の中の悪魔性。その悪魔払いの儀式や祈り、祭りは無かった。

プルサーマルでもMOX燃料でも、核燃料サイクルでもなんでもいい。そこからは誰が何と言おうと「核のゴミ」が出る。ゴミは貯まる一方だ。
誰かが、そのゴミ拾いをしなくてはならない。
シンボルフスカが書いた詩のように。

大人が出した「ゴミ」を拾うのは誰か。若者だ。今も、将来も。

原発とハロウイン。どこかにある「社会構造」としての連関性。そうだ。
この国はまさに“仮装国家”なのだ。
それを見抜いた若者が街に溢れるのかもしれない。
監視カメラの彼らの実像は捉えられないし。

“仮面舞踏会”はもう終わりにしよう。

「トリック・オア・トリート(Trick or treat)。ご馳走をくれないと悪戯するよ」。

悪魔の火は悪戯ではない。こどもの悪ふざけでもない。束の間もらったご馳走。それが破滅と壊滅となって戻ってくる。

やがてまた来る。クリスマスという「国民的行事」が。馬鹿騒ぎの理由づけの時が・・・。

0 件のコメント: