2014年11月9日日曜日

「責任」という言葉の無責任

川内原発再稼働にあたって伊藤鹿児島県知事はこう言っている。同意の理由をだ。
「事故時に国が責任を持つことなどを国が約束してくれた」。
「原子力規制委員会の審査で安全性が確認された」。

国が約束したから、規制委が安全だと言ったから。いわば「他人」がこう言っているからこうするって論法だ。自分自身の“判断”はあるのか。
なぜこういう風に言うかと言えば、それは福島県知事のスタンスとあまりにも酷似しているからだ。

国の責任、国の責任。この言葉に何度振り回されてきたのだろう。福島県において「国の責任」なんてほとんど果たされていない。多くが国を信頼していない。いちち、その事象を挙げればきりがないくらい。

責任とは何だ。事故が起きてとるべき責任とは何か。国の国民に対しての責任とは生命、財産、安全を守ることだ。
それらは福島に置いてはまさしく無責任に放棄されている。

その場しのぎの言葉の羅列で。

原発事故に対して責任をとれる人なんていないのだ。

あの「かわうち原発」と言ったど素人さながらの大臣が「責任をとる」と言ったことが、その論拠であるならば、勘違いも甚だしいし、それを隠れ蓑にしているとしか言いようが無い。

規制委員会の委員長も「100%安全とは言わない」と公言している。それは何の“担保”にもならない。まして規制委は火山学者の警告や見解を、まったくのように排除している。

「3・11」以来、「責任」と言う言葉がそれこそ濁流のように溢れ返っていた。
責任という言葉を使えば、それで事足れりというような風潮に始まって、責任追及という言葉にも及んで。

誰も責任は果たしてない。いや、そもそも「責任とは何ぞや」ということも議論されていないし、その解釈も無い。言葉だけの独り相撲だ。

刑事責任。それは裁判所が問える。判決が出ればそれが“責任の所在”ということになる。

福島の事故の責任は誰もとっていない。それを追及する動きも寡となった。それは無かったことのように、この国は「元に戻ろう」としているみたいだ。
それを多くの国民が“納得”してしまっているような風潮。

武士の世界では、侍の時代では責任をとるというのは「腹を切る」ということだった。責任と言う言葉には命を賭すという覚悟が要求されていたはず。

責任と言う言葉をあまりにも安易に利用しているのではないか。

そうだろう。戦争の責任だって不明確なままなのだから。戦争だって原発だって誰も“総括”出来ていないのだから。しようとしていないのだから。

しかし、純朴な国民は「責任」という言葉を聞くだけで、それに安堵の気持ちを託す。

責任と言う言葉の欺瞞。責任という言葉の、それを安易に使うことの無責任さ。
たとえば「説明責任」なんて言葉だってそうだ。

「実態の無い言葉」だけがまるで“幽霊”のようにさまよい、投げかけられているということ。それは「復興」でもあり「絆」でもある。

言葉だけの“快感”と言っていいのか。

すべからく「本質」を問うべきこと、問うのが人としての在り様だとも思うのだが。

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