昨日の塾でこんな話をした。テーマは「福島を“哲学”する」。
なぜ“哲学”としたか。
哲という字は「折」と「口」が合わさって字だ。「折」と言う字は「絡み合った複雑な物事をばらばらに分離する」という意味がある。それに「口」を重ねることで、「言葉で道理を明らかにする」という意味があるからだ。
「自然と文化とは相反するものではない。自然は文化の根である。深い大きな自然を離れた人為的文化は退廃に終わるのほかは無い」。
関東大震災後、哲学者西田幾多郎が述べた言葉である。そのまま「3・11」後の福島にも当てはまると思ったからだ。福島は哲学の場でもあるからだ。
「未来に不安を抱く人は、しばしば、過去の記憶の世界への逃避を試みる。しかし、人はかこの記憶の世界への逃避によって救われることは無く、いずれは“現実”に向き合わねばならない時がある。
常に新たな創造を行うのでなければならない。新たな自分を創造し続けながら生きて行く」。
この言葉も今の福島に、向けられたものであるかもしれないと思ったから。
哲学とは自分自身の経験などによって得た世界観、価値観、理念だと理解したかったからだ。
哲学的に福島を見たとて、何が解決するわけではない。ただ、そういう観点から考えることで、自分自身の中で、常に絡まっている事柄を解きほぐすことが出来るかのしれないと思ったから。
まさに「我言思う故に我あり」だ。
プラトンの言葉も引用した。「思い出すことが哲学の機能だ」とも。「忘れてしまった事を取り戻す作業が哲学だ」とも。
「かつて見たものは今は見えなくなった」。先人が今の福島を予測していたようにも思えたから。
実存主義哲学は「人間は不条理とともに生きる」としている。そして、「不幸があるから、幸福を感じ取っている人がいる。私たちは幸福が有り過ぎるから、かえって満足を得ていない」とも言われる。
こんな言葉を紹介しながら、「福島の不幸は、誰か他者に幸福を与えているのかもしれない」と投げかけてみた。
普段は比較的寡黙な塾生が、積極的に反応した。
「福島の不幸とは何を指すのか」から始まって、他者の幸福とは何を指すのか。彼の意見は、福島を敷衍して、沖縄、香港の事にも及んで行った。
自分は何か行動したいと思っているとも。
2011年3月12日夜。彼はすでにして避難所のボランティア活動に単身参加していたのだが。
「そうだな、不幸を味わった福島県人は、もしかしたら不幸を知らない人達よりも幸福なのかもしれないな・・・」と膳問答のような投げ返しをしてみたが。
11日の夜。哲学の一端に触れ、それを考え、「福島」を語り合っていた人達がいたと言うこと。
熱い雰囲気と風があったということ。
家に帰ってテレビを見たら、「地獄とは他人のことである(サルトル)」と思っているような人たちの“世界”で、解散風というのが吹き荒れていると伝えられていた・・・。
2014年11月12日水曜日
“チェルノブイリ”異聞
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