2014年11月10日月曜日

「福島の今」ということ

原発1号機の建屋を覆っていたパネルの2枚目が外された。
空撮では散乱する瓦礫が見てとれると言う。

福島県の特に県北の名産品、「あんぽ柿」作りが4年ぶりに再開された。

きょうの「福島」の様子である。「事実」である。

それへの論評、評価は別として。

数日前、郡山の小児科医でありペップキッズこおりやまの理事長をしている菊池信太郎君がこんなことを投稿していた。

「ニッポンのみなさん
そして福島のみなさん
3年半経っても、原発周辺地域はまだまだ本当に沢山の問題を抱えています。
自宅があっても、バリケードで入れない。
草はボウボウ。動物や泥棒の足跡。
つい先日、国道6号が自由に通行できるようになりました。
ぜひ、一度は帰宅困難地域を通過し、
富岡駅を訪れてみてください。
さらに、津波の被害を受けた沿岸地域にも。
そして、この地域に普通に生活していた方々の無念と、
一瞬にして生活環境が変わってしまった福島の子ども達の日々を、
想像して頂きたいとおもいます。
ここが同じニッポンであることに、
疑いを持つはずです。
私たち福島県民も、どうしたら本当に復興できるのか、日々真剣に考え自分たちが出来ることをやっていかなくてはと教えてくれます」。


写真と共に。6号線、これから先帰還困難区域につき自動二輪や歩行者は通行できないという注意の看板。まったく「あの日」のままの富岡周辺の画像。荒れ果てたままの風景。

積まれた汚染土のバッグの山・・・。


この投稿について彼と話はしていない。書かれた文章を勝手に判断する。

なぜ、あえてニッポンのみなさんと併記して福島のみなさんと書いたのかということを。

彼の中に「県民ですら、忘れていっている」。そんな彼なりの危惧があったのではないかと。

100キロも200キロも、いや、もっと以遠からこの地に、帰還困難区域に、富岡に来ることは物理的にも、経済的にも不可能な人もいるだろう。

それでも「通ってみてください」と彼が言うのは「福島の今」を知ってもらいたいと言うことではないのだろうか。と慮っている。

「知るという支援」。そんな演題で講演したことが再三ある。それは、3年8か月前からの福島であり、今の福島をということでもある。

見るに越したことはない。その地の空気や臭いも含めて。でも、それがかなわないならば、その時、その時の「福島」を知ってもらいたいということだ。

何かをしてくれと言うわけではない。知れば、その人の価値観、人生観も変わるかもしれないという意味でだ。「3・11」前の生活に戻り、その中に変わらぬ日々を送っていていいものかという問い掛け。

それは県内にも通じると彼は感じていたからではないだろうか。

最近、またネット上では去年の映像が流されている。
外国メディアの映像だ。

「外国人カメラマンが撮った福島警戒区域内の今の姿40枚」。去年の10月の撮影とされている。

映されたものは事実としての光景。
でも「警戒区域」という呼び名は、去年の10月で無くなっている。

実態はともかく、「警戒区域」は、今の福島には存在しない。

「福島」を語ると言うことは難しいことだと思う。どこに目線を当てるかを含めて。

あの日以来の福島を忘れてはいけない。記憶にとどめて置かなくてはならない。
その3年以上の時間の経過も。

それと同時に、「今」をどう捉えるのか、そしてどうするのか。何を思うのか。

過去、現在、未来・・・。思考は「螺旋の森」のように行きつ戻りつすることではあるが。それはいずれをも可とすることでは無く。

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