2014年11月30日日曜日

「風」のこと

「追い風も向かい風も感じないな。風は吹いていないってことじゃないか。だから盛り上がっていないってことじゃないの」。

こんなことを斜に構えながら言っていた。副総理麻生太郎。
正鵠を射ているのかもしれない。もちろん選挙のこと・・・。


風を読む、空気を読む。風はどんな風に流れるのか。今の風と2週間後の風と。
風とは空気だ。自然現象として捉えるのではなければ。

2年ほど前から、この国にはおかしな風が吹き始めた。空気はそれこそ閉塞感を助長させ、重苦しさが伴ってくる。

真の意味で無い、ムードとしての右傾化。自由にものが言えない空気。
独りよがりの“おぼっちゃま”の“独裁思考”のような「幼児性」。

本当の幼児は違う。幼児は哲学的であり、本質をわきまえている。大人に(真の意味での)対して使わせてもらった悪い意味での「幼児性」。

昨日書いた「朝生」のことにまたちょっと触れる。

結果的にそうなった番組の国会議員同士での討論。
国民と言う言葉は使うけど、それは自己を正当化したいための方便。国民は眼中に無い。相手の政党をけなす、攻撃する、自党の主張だけを声高に言い募る。
それだけの応酬。

ほとんどの国民はそんな番組を見たいとは思っていない。

まだ、そこには“恣意的”な“演出”がほどこされているとしても、名も無い民が何を思っているかを自分と置き換えて感じたいと思っているはず。

「公正・公平な報道を」。監督官庁の総務省が言うならまだわかる。一政党が恫喝する。
ならば、野党と言われるところもテレビ局に同じような「要望書」を出したらいい。

少数政党と大政党(自民)の発言時間が同じと言うのはおかしいとクレームを言っていていたのはなにを隠そう自民党だったのだ。自分たちが公平をおかしなことと決めつけていたのだが。
議員数に応じて発言時間を決めろと頑強に言い張って来た時もあった。

「朝生」だけではない。テレビは完全に萎縮したように見える。

今や、政治家はテレビの有用性を知るようになった。政治家だけではない。テレビの出たか出ないか。それを殊更重要視する人達も多くなった。
菅か野田政権下だったか。官邸前には連日のようにデモがあった。そこの参加者からはネットを介して、「なんでテレビは取材に来ないのだ」と叫ばれていた。

情報リテラシーという言葉がとみに言われる。その中には、それをちょっと拡大して考えてみれば、今度の自民党の“通達”だって、有権者のリテラシーで解釈できる問題。

とにかく、テレビにとどまらず新聞も萎縮し始めている。朝日新聞の「誤報」問題、その後の展開が根底にあるのかもしれないが。

たまたま今日、長谷川如是閑のことを書いていた人がいた。彼の記事が朝日の不買運動につながり、朝日の凋落を招いたという“歴史”。

「幼児性」ということを言った。その一つがツイッターに小学4年生生を名乗った大学生が投稿していたことを安倍が敏感に反応したこと。

敵意丸出し。

とにかく「自分の意に沿わないこと、気に食わないことは排斥する」。その心情を言ったのだ。
「彼が気心のあった人達と談笑しているのが、彼の一番気の休まる時だ」。去年だったか、そんな官邸の空気を教えてもらったことがある。内部の人の話だ。
そうなんだなとあらためての納得。

気に食わないものは断固排除する。自分の好き勝手にしたい。そんな精神性が彼の中には宿っているのだろう。

マスコミだって営利企業だ。視聴者離れや購読者離れは一番困ることだ。広告出稿がなくなれば会社の存立さえ危うくなるかもしれない。

しかし・・・だ。ジャーナリズムの本旨に立ち返れ、“圧力”には屈するな。
その道に入ったことの本意はそうではなかったのか。

「風は吹いていない」と麻生は言っていた。そりゃそうだ。風を止めているのだから。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...