2014年11月5日水曜日

「危険と安全」との歪み

1F4号機にあった使用済み燃料の取り出しが完了したという。
残りは未使用燃料の取り出し。年内には完了の予定だと言う。

廃炉に向けた一つの工程が終わったことには間違いない。

でもまだまだだ。1から3号機。気の遠くなるような時間と費用、そして作業員の確保。

汚染水の問題は最近はほとんど報じられない。棟土壁の“欠陥”はどうなったのか。地下水のくみ上げは・・・。

4号機から取り出された“燃料”1Fの敷地内にある「共用プール」なるところに“保管”されているという。そこには、場を替えたものの「それ」があるということだ。

移送完了で、一つの“安全”が担保されたということか、“危険”はなお存在するということか。誰もわかっていないのではないだろうかとも。

一つの通過点は過ぎたかもしれないが、そこでは、まだ何も終わってはいないのだ。

誰かが大きな声で言った「アンダーコントロール」。それは、どこか汚染水の問題だけに特化されている。

1Fの現場内にある「危険と安全」との捉え方の問題。

政府事故調の畑村委員長が、報告書の中に書いていた文言を思い出す。あの報告書は、役人が書いた無味乾燥な文章だけではなく、多くの示唆に富んだ畑村委員長の“哲学”が込められているように感じたから。

彼は書いていた。
「見たくないものは見えない。見たいものだけが見える」と。政治家の“視察”っていうのは所詮こういうことではないのだろうか。

「有り得ることは起こる、有り得ないことも起こる」。その認識が、電力会社や政府にどれだけあるのだろう。

この畑村所感は、再稼働論議にも全く同じく通用することと思うのだが。
「有り得ないことも起こる」のだ。

“危険”というものに、もっと真正面から、真摯に取り組めということだ。

90%の「安全」、10%の「危険」。その危険はいつくるのかわからない。人は、やはり目先を考える。そして、「安全」の思考に軸足を置く。
そうしないと「やってられない」からだ。

安全か危険かの捉え方、それをめぐる“思考”の歪み。そう、彼は歪みと表現していたと思う。

歪んだ考え方と言うことではないと思う。どちらに軸足を置くかということだ。

我が家の周りでは、どういうわけか今も、今朝だって「除染作業」が行われていた。どうもマンションの側溝を除染している模様だった。

除染によって「安全」が担保されるのか。除染をしてもなお「危険」と見るのか。そこにだって”考え方の“歪み”がある。

この問題。例えば飯舘村ではどう捉えられているのだろう。「仮々置き場」まで要求される地域。

帰還問題だってそうだ。歪みが、住民たちの分断にもつながっている。

「福島」では何も終わっていない。

あの日のままの光景の場所だって、帰還困難区域に行けばいくらでもあるのだ。

政府事故調の報告書は、単に福島の総括だけではない。再稼働論議につながっていくもののはず。

報告書が出されたことで、終わりにしてはいないか。報告書は次へのステップのはず。読み返している「関係者」はいるのだろうか。

川内原発に行って「かわうち」という大臣をもってしても。こっちの川内(かわうち)は、歪の中で試行錯誤の日々だと言うのに。

「4号機移送完了」のニュースに接して思ったこと。

で、歪を無くするのはどうしたらいいのかと言う模索のこと。

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