2011年5月31日火曜日

政治と国民との耐え難き落差

言うまでもなく国民は政治に生活を委ねている。政治がなければ国は動かない。

今、この国は平時ではない。まさに有事である。未曾有の有事である。放射能との戦いが続いている。

その時に政治がどう機能しているか、いないか。この国の命運がかかっている。

その政治の実態を見たとき、政治は国難に対処しているのか。政権が機能しているのか。すべての国民が思っているのではないか。機能不全だと。

菅政権は無策の政権だと思う。首相をはじめとして閣僚や政権内部の人達。何をやったか。何もしていない。そしてやってはいけないことや言ってはいけないことを勝手に喋りまくり。
政権は統治機能、統治能力を失っている。

民主党内部でも、小沢はともかく、小沢一派はともかく、菅の能力に辟易としている人たちが多いのではないだろうか。

菅にこの国のリーダーをやめてもらいたい。そう思う人は増えている。特に被災地では。しかし・・・。

被災地の思いは、とりわけ原発事故が進行中の地にあっては、なによりもその収束に向けての政治の力を望んでいる。収束に向けて政治が役立っているのか。疑問符だらけである。

しかし・・・。にもかかわらずか。政治家たちは「政争」に「政局」に身をやつしている。政局、それは平時のことである。

菅を下ろして、誰にするのか。不信任案を出して可決させて、総辞職か解散の道を選ばせるのか。

この政争に国民がしらけているのは、おかしいと思うのは、自民党政権に復帰することを望んでいないから。特に谷垣政権などとは誰も期待していないということ。

民主党政権には期待度が裏切られたことで、もし総選挙になったら自民党はそれこそ300議席も獲得して総裁である谷垣が首相になる。それは国民がいさぎよしとしていない。
総辞職。菅に替えて誰を代表にする。誰もいない。

政治が頓挫し、混乱する中で、原発だけは進行している。

震災復興や原発収束に向けて菅政権ではダメだ。それが大義名分である。大義名分に被災者が使われている。

政局の動きは、まさに平時の時の動きと変わらず。

今ほど、政治の動きと国民感情の落差が耐え難いくらい大きかったことはあっただろうか。

与野党を問わず、福島県選出の国会議員が、この「政局」に「ノー」を叫んだだろうか。

かつて国会議員で宰相を目指す人は、現場に身を置いて宰相学を学んで来た。菅にその学んだ形跡は無い。宰相はいかにあるべきか、いかに事を為すか。それが全くわかっていない。

永田町的思考から抜けきれず、その思考のまま政局解説にあたる記者達。

ならばどうする。谷垣自民党は嫌だ、小沢では自らが口下手と自賛するように国民を鼓舞する言葉を発せられる訳がない。菅が「変身」するしかない。どうか目覚めて欲しい。目覚めぬ菅。ならば閣僚や側近が刺し違える覚悟で箴言して欲しい。諌めて欲しい。

官邸の中でなにかをわめいていても、国会で無意味な答弁をしていても埒はあかない。原発現場に行って、所長以下、現場で死闘を繰り返している作業員を前に「すべて任す。本店には有無を言わせない。保安院の体質も安全委員会の体質も変える。出来うる限りのことをやってくれ。すべての責任は俺が持つ」。そんな度量を示すこともできないのか。

落差の中で国民は奈落の底を思う。

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