2011年6月28日火曜日

かくも絶望的な乖離

言うまでもなく、菅をとりまく政治の有り様と被災者の気持ちのことである。絶望的な乖離。

昨夜、テレビで中継されていた菅の記者会見を見ていた。あるフリーランスの記者が菅の政治哲学を問うた。菅は一瞬たじろぎ、国民それぞれが・・と訳のわからないことを言い始め、テレビの中継は終わりになった。聞くことができなかった。きょうの新聞にもなんら書かれていない。

退陣の時期や人事のあり方を質問するが、菅ははぐらかして明言しない。一人一問と決められているのか、たたみこむ質問は無い。次に名指しされた人は別な事を質す。なんで同僚記者の質問に答えが食い足りないと思ったら他社でもそれについて二の矢、三の矢をはなとうとしないのか。官邸報道室が取り仕切る記者会見の限界か、記者の質か。

突っ込んだ論戦は記者会見では不可能なのか。ならば国会論戦しかない。その国会で果たして論戦が行われるのか。

迷走、混迷。もはや菅の政治手法を語る言葉さえ持ち合わせない。それでも政治に一縷の望みを託さなければならない被災地や原発難民や哀れ。

菅直人という男はまさに”我欲”の人間なんだと思う。自分さえよければいい。自分の都合の良い人にだけ擦り寄る。盟友であるべき民主党の執行部の意見など取り入れない。自分の辞任を迫る奴らは途端に敵に見える。

亀井の意向を良しとし、それに習う。あげく石井一もだとか。古い自民党政治を生き抜いてきた政局だけを生きがいにしているような奴らと手を組む。

権力の座を射止めそれを死守しようとすることに血道を上げる男。生き残りを画策する男。その頭の中には被災者の日常のことなど消し去られているのでは。

不信でもない。失望でもない。もはや絶望しか無い。政治にいくら絶望しても被災地の人間も、国民も、今日も、明日も、生きていかなければないらない。

最後まで防災無線のマイクを離さず「高台に避難してください」と訴え続け波に飲まれた南三陸の遠藤未來さん。彼女の声が多くの人の命を救った。
彼女の死を悼み世界中からも哀悼の手紙が寄せられているという。死を覚悟しながらも己の使命を全うした。そんな人のことを「利他の心」と呼ぶ。やはり身を捨てたというお釈迦様の教え。

第二の、第三の遠藤未來さんが被災地にはいた。

身を捨てて、己を殺して民を救おうとする政治家はありや。政治家の言葉に希望の光は見いだせるのか。ありえない。

民主党議員の覚醒を望む。何も内閣の一員だからとか、執行部だからとか「大人」の理屈を口実にして身をすくめているときではない。

きょうも・・・。東電の株主総会は荒れ、永田町では政争、政局というゲームが繰り広げられている。そう、単なるゲームが。
原発では暗中模索の作業が続けられ、被災者、避難民たちは明日の方向すら見つけられないでいる。

今、この時。福島県に居てよかったと思う。津波で家族を失ってしまった人たちを身近な知人として持ち、放射能の”恐怖”におののく人たちの中で暮らしていることを。被災者の近くにいるからこそボクにはいささか語る資格があると思う。

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