2011年6月2日木曜日

伝えない”勇気”

まもなく衆院本会議が開かれ、不信任案が採決される。可決の可能性も大。いまのところ菅は解散に打って出るという。

政局の細々な動き、論評をする気はさらさらない。ほとんどの国民は呆れ返っているはず。被災地の人のみならず。

一昨日書いたが「落差」は怒りを超えて悲しみになっている。身が震える。手段はともかく国民が国会議員に、政治に「不信任」を突きつけるしかない。
その声を聞く耳は持ってはいまいだろうが。

政局どころではない。重ねて言う。菅の無能さにも傲岸さにも辟易している。
不信任案が可決されようと否決されようと政治は機能しなくなる。それが被災者にどういう影響を与えるか。

原発では汚染水の処理をめぐってギリギリの作業がすすめられている。水道の復旧しない三陸では川で洗濯をしている。

岩手、宮城、福島の三県選出の国会議員は何を考えているのか。何をしているのか。

ここ数日の政局騒ぎ。メディアは緊迫だとかぬきさしならないだとかいろんな表現で伝えようとしている。

可決の票読みをマンガを使って解説しているテレビ。国民不在だと必ず言うけれど政局を伝えているメディアに国民不在って言えるのか。同罪だと。
伝えなければ国会議員の動きも変わる。

伝えるから政治家は余計に張り切って行動する。

被災地の「国民」はダシにされている。政局の。政争の。

ダシにしているのはメディアも同じかもしれない。

この政局の動きを「否」とするならば、新聞一面を全部使ってバカな政治家を糾弾する論陣を全紙がはればいい。テレビもワイドショー的報道はやめれればいい。「否」を鳴らしつづけなくてはいけない。

そこにそういう動きがあるから伝えるのが使命。それの是非は後で論じるとでも言うのだろうか。政治家のあとを追い、小沢に群がり、マイクを突き出しているテレビ。情けなくはないのかい。自分たちのやってることが。

「伝える」ということはメディアの使命である。知る権利に答えるのもメディアである。しかし、今、伝えなければならないのは、被災地のことである。

政局。予測をクダクダやるのが使命か。伝えない勇気というものがあってもいい。このバカバカしい政局ごとを逐一追いかけ伝え、永田町の論理にどっぷりつかってしまっているメディア。

メディア本来の力を発揮して欲しい。バカバカしい動きを伝えない勇気を持って欲しい。

バカバカしさを伝えることで国民に政治家の実情を伝えることにもなる。だから意味がある。そういう見方も出来るかもしれない。しかし、

ここまで書いたらニュース速報。菅は震災対応にメドがついたら退陣と。
結局ぶれまくりの民主党。猿芝居を演じきった民主党。この「結末」を読めなかったメディアのお粗末さ。

またもばかばかしくなってきた。政治のゲームに付き合うことが。政局を面白がっている奴らは誰だ。

戦後60年あまり。こんな無能な政治家達を見たのがはじめてだ。
メディアの無責任さを知らしめられたのもはじめてだ。

「がんばろう東北」。そう書いたステッカーを貼った車が事務所の前を走り去っていった・・・。

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