2014年1月13日月曜日

「新成人」と「行き場の無い高齢者」と

昨夜、東京から来た知人と郡山市内のホテルのロビーにいた。

ロビーはいっとき、若い男女で埋め尽くされていた。成人式の“二次会”だったのだろうか。ごく普通の服に着替えて。

そのホテルのロビーは「3・11」後、そこに宿泊していた人も含めて、交通網が遮断されて行き場の無くなった人たちの「避難所」だった。

ホテルは大方が損壊。従業員は部屋から毛布を持ち出し、炊き出しをし、ロビーには多くの人が毛布の中でかなり長い間過ごしていた。

そこは一時期、決して“晴れやかな場所”ではなかった。暖房も切れていたし。

やがてそこは晴れやかな場所に戻っていった。

郡山の成人式はきのうビッグパレットで行われていた。振袖姿の女性、羽織袴の男性。歓声がうずまき、スマホの撮影会が続き、イベントがあり、来賓挨拶があった。

「3・11」後、その場は8千人からの人がひしめき合ったいた、着の身着のままの、食料を得るための段ボールで囲われた、人間の尊厳が皆無のような避難所だった。数か月にわたって。

そんな光景や面影や今は全く無い。


着飾った成人式。日本全国での。

僕には成人式の記憶が無い。それがあったのかどうかも知らない。着るものは学生服しか持っていなかった。
二十歳になった日、それを覚えていない。

「整えられた成人式」。その日が彼らにとって何を意味するのだろうか。

二十歳の誓いやどこでも読み上げられ、それには期待するのだが。

写真は“記録”として残るだろう。思い出になるだろう。友人との久しぶりの再会。楽しい一日だったろう。
でもそれは、長い人生の中のたった一日だけの通過点だったのかもしれない。


そのタイミングをねらったのかどうかは意図はわからないが、今日の朝日新聞の二面にわたる特集は老人問題だった。

都会の、行き場を失った、大方は痴呆や介護を必要とする高齢者が、まるで「ふきだまり」のように、そこにしか身を置くところが無いという通所介護施設の話。通称は「お泊りデイ」。デイサービスなのにそこに泊り続ける高齢者の話。

見出しは書く。「行き場なく雑魚寝の老後」と。

このところ自分の「老後」が気になる。とりたてて老後の蓄えも無い身、今は、疲れたを連発し、明らかに身体の動きが緩慢になっている自覚は持っているものの、やがて「普通」でないからだ、介護を必要とするかもしれない身、数年先かもしれない自分の、その時の姿を想像したりする。

とにかく「健康第一」と真剣に思いながらも、日々に追われて何もしていないようなこの自分。

「なるようにしかならない」。そう思って考えを中断する自分。


今年の新成人は121万人。去年より1万人減っているという。

たぶん「社会システム」として、若い人が高齢者を抱えると言うシステムは崩壊するのは必至だと思う。

国の政策にしても、何にしても、それを考え実施するのは現役の人たち。政治家にしても官僚にしても。

際立った高所得者だった僅かの高齢者を除いて、「豊かな老後」は有り得ないのではとも思う。

人は、その多くは、「今の自分」を基準にして物を考える。それは「今が、今さえ良ければ」という事では決した無く。

121万人の新成人。彼ら、彼女らの50年後はどうなっているのか。
学者や専門家、役所では数字としてそれの予測はしているだろうが、やはり、それに携わっている人たちは、遠い将来の事としか見ていないのかもしれない。

高齢化社会と言われて久しい。それが、現実の問題として表れて来た。誰も有効な手を打てないでいる。

不謹慎のようだが、成人の日と言う目出度い日であるからこそ、高齢化社会に思いを馳せる。

老いる、衰える。それを人生の摂理として、哲学として教えを語る人たちがいるが、とてもじゃない、そんな高潔な人格なんかになれそうも無いし・・・。

なんの覚悟も持ち得ないまま、きっと今日一日を終えるだろう。「なじょすっぺ」。そんな疼きを抱えたまま・・・。

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