2014年1月17日金曜日

「巡礼の旅・・・」

19年前の今日、あの阪神淡路大震災があった。6400人余りの方が亡くなり、神戸の街は“壊滅”した。
朝から、そう発生した午前5時46分から、神戸を中心に、鎮魂の祈りに包まれる。
19年前を思って祈る。それは生きている人達の、時の流れへの“巡礼の旅”かもしれない。

あの日、まだ寝ていた。その時は。会社の宿直から電話があり、テレビを付け、とにかく会社へ。会社の棚の上に並べられている5局を写すモニターからは、空撮を含め、その映像が次々に映し出されている。
「破壊された映像」。
大阪の局との取材応援。支援の手配。とにかく一日中立ったままだったような。

それが「遠く」で起こった惨事であることがかえって歯がゆかった。

火災も含め、破壊しつくされた映像。

後日、「阪神淡路大震災と方丈記」というコラムをやっとの思いで書き上げた記憶がある。「大地震(おおない)ふることはべりき」の段を引用し、冒頭の一文に戻り。うたかた、風の前の塵・・・・。

半年後、ようやく神戸に行くことが出来た。長田の仮設商店街に足を向けた。
そこには人が溢れてはいたが、“復興”という言葉は浮かばなかった。

とにかく、神戸の街はすっかり、その姿を変え、仮設がマンションの復興住宅に変わっても、そこには多くの問題が渦巻いている。今のこと。

その年、3月22日、地下鉄サリン事件が起こった。神戸が祈りに包まれている日、被告の一人の“遅すぎた裁判”が行われている。

地震とオウム。関連性は無いと思うけれど、あるのかもしれない。
気障なようだが「黙示録」としての。黙示録とは「啓示」という解釈での。

「巡礼の旅」ときょうの表題に書いた。村上春樹の「色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年」から借りた。

彼の災後の文学とも思ったが、そうであるのかどうか。わからない。読む方がかってにこじつけるだけ。

「アンダーグラウンド」。オウムを題材にした、村上春樹のインタビュー構成の小説。そこにも黙示録的なものを感じた。

そして、3年前の東日本大震災。神戸と決定的に違うのは、東北は原発事故を伴ったこと。

「悲しみの共有」の中で、原発事故はどういう位置に捉えられるのか。

「3・11」の後、また方丈記を持ち出して書いた。数本を。方丈記に仮託する以外に、鴨長明の時代に遡る以外に、巡礼は出来ないと思ったからか。

きのう、東京の渋谷に行った。原発事故後、4月と5月と7月と。津波で破壊された浜通りの光景、何も破壊されていないが、見えないものによって破壊されてしまった飯舘村・・・。「無人地帯」というドキュメンタリー映画の劇場公開に先立つ試写会。

故郷であるはずの渋谷。その町もすっかり面影を変えていた。あの頃、つまり毎日のように通っていた百軒店。ジャズ喫茶が二軒あった一角。もちろんその店は無い。スイング、オスカー。
あやしげなホテル街に変貌していたボクの町。そこには色彩があった。でも、それは単なる看板としてだけの色彩。

きのうはボクにとっては“巡礼の日”だったような。そして残ったのは、限りない疲労感。

渋谷に向かう山手線。たまたま、無人地帯の監督が大島渚の“弟子”であり、大島渚が持ち続けていた「怒り」を受けついでいたからかもしれない。
前日に見た日本テレビのメンタリー「忘れられた皇軍」を見ていたからだろうか。山手線の車内で脳裏に浮かんだ光景。傷痍軍人がいたあの頃、子供の頃の光景。

あの頃、山手線は子供たちにとっては格好の遊び場だった。一区間の切符を買い、何周でも乗っていられた。最前列でレールを見て、車窓の風景を飽きずにながめて。必ず傷痍軍人と出会った。白装束の。義足や義手の。
その人達との接し方を子供はわからなかった。首から下げた募金箱に入れる金は持っていない。だけど、その異形の人たちがいるのは戦争によるものだとはわかっていた。出会う度に戸惑っていた・・・。

記憶を巡る巡礼の日だったのかも、昨日は。

「無人地帯」の監督に聞いた。インタビューを受けていた飯舘村の人のその後を。笑って答えていた95歳と言っていたばあちゃんは去年亡くなったという。
60年間、丹精込めて手入れをして美しい花々を庭に咲かせていたばあちゃん。
消息は不明になっていたと聞いた・・・。

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