2014年1月18日土曜日

電力“消費者”としての東京

ごくごく単純な話し、もう、今や、東京で使われている電気のほとんどが福島で作られていた、福島第一発電所で作られていた。それを「知らない」という人はいないだろう。今でも福島の広野火力や小規模ながら水力発電で、それはもちろん東京電力の発電装置だが、電気は東京に送られている。
東京の電気は新潟の原発からも送られていた。今はどの原発も稼働していないが。

東京は巨大な電気の消費地だ。消費者だ。そして、この国は消費者を大事にする。消費者庁なんて官庁もあるくらいに。
そして事あるごとに「消費者は声を上げよう」といい、何かクレームごとがあると消費者センターに連絡しようと呼び掛ける。

福島は電力の生産地だった。
「うちは東北電力さんから電気を買っているのに。なんで東京電力の爆発でこんなことになるのかな・・・」。全村避難を前に、炬燵の上で手を組みながら飯舘村の主婦がつぶやいていた。
「東京電力がなければな・・」とも。そして別の人は言う。「起きてしまったことは仕方ないけど、納得いかないよ。あいつらの言い分は聞けない」とも。

映画「無人地帯」に記録されている言葉だ。

消費者である以上、なにかと言うと消費者の権利を主張する以上、東京都民は原発について議論すべきなのだ。どっちに動くにしても。

都知事選の焦点に原発を掲げることの是非がかまびすしい。

争点に、最大の争点にして然るべきだ。消費者だったのだから。

都政とはなんぞやなどと、いわゆる「政治論」のレベルで、政治の在り方、地方自治のありかた論で、屁理屈を言っている政治家、政治評論家や政治ジャーナリストさんたちよ。
玄人ぽいその解説、いらないよ。どこの党内事情がどうだとか、裏ではどうだとか、それは、大好きな政治論議ではあるけれど、ちょっと違う。

以前はこう言っていた。こんなことをしていた。それはどうでもいいこと。
今、原発についてどう思うか。どうすべきか。
最大の消費地、東京が真剣に考えること。3・11後を問うという意味でも。

原発について、都民の選択を問うべきなのだ。奇禍として訪れた都知事選。

消費者の責任において決めるべきことなんだ。原発につての選択を。

原発が無くなって電気料が上がれば困る。そう家庭や工場で声があがる。それはそれでよし。でも、絶対安全な原発は無く、欲得の問題を絡めずに、福島の悲劇、今も延々としてつづく悲劇、解決の道筋も見えない悲劇。それを知って、どうするかの選択をすべき“チャンス”を迎えたんだぜ。

反対のための反対運動。それは無視して結構。個々人の「モラル」「在り方」として敢えてその道を選ぶべきなのだ。

この時以外は無いのだよ。意思を示せるときが。

数日前、郡山市内であった建設関係の新年会。
「アベノミクスが浸透して、景気はよくなってきていると思う。しかし、建設資材が高騰し、資材不足。発注があっても応じられない。しかも人手不足。人が集まらない。お互い情報交換を密にして乗り切らないと」と社長の挨拶。
雑談の中で言われる。「オリンピック工事が始まったら、この事態はもっと深刻になるだろうな」という危惧の念。

そういう点ではオリンピックの問題だって焦点の一つにあげてもいい。他の事はおおよそ猪瀬がレールを敷いているんだから。

誰かの犠牲の上で、犠牲を強いて、成り立つ政治。

とにかく厄介なしろもの。破壊された原発。手を付けられない“原発”を抱え込んでいる福島にとって、従来の政治論議の延長で語られる都知事選にはしらけきってしまうのだけどな。

だからね、福島県人も、そろそろ県知事選のことを心配しましょうや。このままでいいのかどうか。後出しジャンケンがどうだこうだという稚戯に類した「高等戦術論」なんてやめてさ。

明日の南相馬市長選の結果も気になる。名護の市長選のことも。

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