2014年3月18日火曜日

「耐えられない軽さ」

新聞にあった本の広告。新潮45という雑誌。特集、「政治家たちの耐えられない軽さ」とある。別に読みたいわけでもないし、興味も無いが。

最近出版された本。タイトルは、たしか「ネットでつながることの耐えられない軽さ」とあったと思う。たしか「暴走老人」を書いた人だったか。

他にもどこかで見たんだ。「耐えられない軽さ」という表現を。

耐えられない軽さ。このフレーズはチェコの作家が書いた小説、その後映画にもなった「存在の耐えられない軽さ」から引っ張り出したのだろう。かなり流行った映画だったから。福島市のフォーラムという映画館に観に行った。そうだな、20年以上も前だったか。

チェコという国の翻弄される運命を描いたものだし、男女の複雑な関係を紡いだ物だったし。
主人公の女性が別れを決意して言った言葉。
「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない」。そんなような言葉だった。
この言葉をきっかけに物語はさらなる展開を見せるのだが・・・。

多分、自分もその時そうだったように、この「存在の耐えられない軽さ」という言葉に惹かれ酔った。

そして、その言葉が時折“借用”されるようになっていると思える。誰しもが思いうかべられるような表現ではなかったから。

そして「耐えられない軽さ」という部分だけが独り歩きをはじめたような。

もうずいぶん前から、日本人の言葉の貧困さに辟易している。およそ「物を書く」ということを生業にしている人達の間でも、言葉は貧困だ。

かつて文豪と呼ばれた人のような言葉の重厚感が無い。なんとか賞の受賞作品にしても然りだ。
言葉の貧困さは人のこころの貧困さにつながっているような気がする。およそ政治家と言う人たちの口から発せられる“コトバ”は、ほとんど言葉の態を成していない。官僚の作文には「騙しのテクニック」しか存在していない。

カタカナ語の流行り言葉は、耐えられない軽さどころか、その存在すら認めたくはない。

借り物言葉で何かを言おうとする風潮。それを良しとしていることに耐えがたい。

どうして、日本語がこんなに軽いものになってしまったのだろう。と思う。

存在の耐えられない軽さの、人が、事象があまりにも多すぎる。耐えられない軽さの言葉が乱発されている。

乱発される軽い言葉・・・。今、「存在の耐えれない重さ」の言葉がある。
「故郷」だ。

故郷。帰る、帰らない、帰れない・・・。今、真剣に、いやになるくらい真面目に、疲れ果てて眠ってしまおうとも、突きつけられている「故郷論」。
20キロ圏内にいた人達の故郷論、故郷観。
自主避難して、他県に移り住んでいる人の「故郷論」。耐えられないくらい重い。

“原発戦争”が惹起した、今の故郷論。70年前の戦争にあった「故郷論」。希望であり、憧憬の地であった「ふるさと、母国日本」・・・。
軽々には語れぬ、しかし語らねばおさまらない「ふるさと」。重みが日々増してくる言葉・・・。

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