2014年3月21日金曜日

”きょう”は母の命日なのでもあり・・・

昭和61年3月22日没。釋尼妙久。母の位牌にそう刻まれている。
この年、お彼岸の中日、春分の日は22日だった。
今年は21日。

花を手向ける。仏壇に。

母親の記憶をたどると、すべてが戦中、戦後と重なる。
腹をすかした子供たちに必死に食料を確保しようとしていた。
いろんな仕事についていたらしい。
戦争ですべてを無くすまでは奥様だったが。
一瞬にしてすべてを失った。空襲で。焼夷弾で。


母親の仕事に後を追ってついていったこともある。
その時出会った光景。

上野駅のガードのところに身を寄せ合うようにしてうずくまっていた子供たち。
家を無くし、親を無くし、行く場の無い子供は、どこから聞きつけたのかガードの下にたむろしていた。

その子たちは「浮浪児」と呼ばれていた。同じような年格好だった。
顔は汚れに汚れ、着ているものはボロだった。

突然、「浮浪児狩り」というのがあった。警察か保健所の管轄の人か、区役所の人か。子供たちを立たせ、並ばせ、彼らについているノミやシラミやダニを退治する。頭からつま先まで白い粉を散布し。消毒剤を浴びせかけ。そして彼らはトラックに乗せられ、どこかに運ばれて行った・・・。

浮浪児。戦後にあった光景。戦争を語る代名詞としても。

どこに連れていかれたのかわからないが、彼らもまた「棄民」だった。

大礒にあったエリザベスサンダーズホームとうところを訪ねた時がある。米兵と日本人女性の間に生まれた「合いの子」の収容施設。親の無い子供たちを育てていた沢田美紀さん。財閥、岩崎弥太郎の孫娘。夫は元外交官。運営資金を出していたのは、もちろん匿名、世間に対しては名を出さなかった、その頃、世間から「色眼鏡」で見られていた人。その人の名を沢田さんから聞いた。右翼の大物とも言われていた。

ホームで暮らし、巣立って行った子供たち。それも棄民だった。

大人たちはヤンキーゴーホームと叫び、子供たちはギブミーチョコレートとジープに向かって声をかけていた時代。

「棄民」でる浮浪児がいなくなった上野駅は、やがて、集団就職の子供たちで埋め尽くされるようになった。集団就職、それは東北からの子供たちだった。

棄民を排除し、金の卵を受け入れ、この国は豊かな国へとまっしぐらに進んでいった。豊かさの前に棄民があったという“歴史”。

原発事故は多くの棄民を生んだ。その棄民の事は無かったかのように、その棄民は経済成長のための必要不可欠なものとされた電気の“乱用”の中に生まれ、より豊かな国、さらなる経済成長を目指して「再稼働」という実態が進んでいる。

経済成長のためには「棄民」が必要となるのだろうか。意図するかせざるかは別にして。

母親の霊前に花を手向けながら思う。埼玉県の騎西高校校舎にあった双葉町の“棄民”。最後の避難所。そこに暮らす人達は、校庭の片隅に花を植えていた。花を育てていた。「土を触っていないと落ち着かない」と言いながら。

津波で町を流され、水産加工業には戻れなくなった人はいう。
「もう俺らは花を咲かせられねえ。俺に出来るのは耕して種をまくことだけ」。

10年後、20年後に花が咲くことを念じながら。

NHKから毎日流れてくる「花は咲く」の歌。花は何処へ行った、花はいつ咲く。歌は言う。「いつか・・・」と。

「いつか」。その言葉が希望の光となるのだろうか。その「いつか」に思いを託すしかないのか。

今年の彼岸はなぜか寒い。

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