2014年3月8日土曜日

見過ごして来た我々の責任

「3・11」を前に、新聞やテレビは特集や検証やさまざまな企画を伝えている。
そうあって当然なのだが。

それらを「情報の洪水が押し寄せてくる」としてしたり顔に忌避するわけにはいかない。いや、むしろ「望んだこと」として、考える材料として受け入れるべきだ。

その内容を吟味するのは、すべて受けてのリテラシー能力にかかっている。

テレビを見て、新聞を熟読して、そこに書かれている、伝えられる「3年間」。
一日がかりの精力が必要だ。見て終わり、読み飛ばして終わりという訳にはいかない。

そこにあること、あったこと。一人一人の人の数行の「物語」であっても、それらと真摯に向き合い、考えなければ・・・。

昨日夕方のNHKのローカルニュース。喜多方の大手酒造会社の社長の話があった。

代々続く有名な酒造会社。大和川酒造の佐藤彌右衛門さん。太陽光発電に精力を注いでいる。地元の人や、応援してくれる人達と一緒に、“身の丈にあった”太陽光発電所、発電会社を作ろうと動いている。

その動機と言うかきっかけについて彌右衛門さんはこんなことを言っていた。

「原発は危険だと思っていた。でも黙ったそれを見過ごして来た我々の責任は重い」と。

いい顔をしているなと思った。浜通りと会津。遠く離れた県内の東と西。

「見過ごして来た我々の責任」。重い言葉だった。それを理解しているということ。福島県人として。

ボクは何度もいうが「福島県人」ではない。たまたまそこに居合わせた程度の“よそ者”。

東京時代から、それなりに原発のことは知っていた。一般的知識の範囲内にしか過ぎないけど。
たまたま知り合って懇意にしていた人が「動燃」の理事長だった瀬川秋男さんという人だった。酒を飲みながら、余人を交えた席ではあったが、原発についての話を聞かされていた。
電源三法の事も、政治のレベルではあったがよく知っていた。

福島にくることになり、「原発」のことが気になっていた。東京時代、子供の頃、ビキニ環礁の事件は知っていたこともあり。

福島に来て、東電の人と知り合いになって、第一をたびたび見に行った。整えられた「美しい場所」ではあったが、その環境は。どことなく違和感や不気味さを感じた。

社員の出入り口と、関連会社の作業員との出入り口は違う。建屋に入る時だが。
着替えを要求され“防護服”をまとい、靴もビニールで覆い、マスクをして、ヘルメットを着用し。
「安全なところ」なのに、なんで・・・。

お天気カメラ、情報カメラ。遠隔地からでもリモコンで操作できるカメラの設置が可能になり、設置に動いた。はじめは郡山の駅前の高層ビルに置かせて貰った。
次に、原発を望めるところに設置しようと持ちかけた。たしか、送電所のある山の、そう、水石山だったか、そこに各社と一緒にカメラを設置した。

「3・11」後、原発の状況を捉えていたのはそのカメラだった。爆発の瞬間を捉えていたのは福島中央テレビのカメラだった。原発に向けていたから。リモコン操作で。

「原発反対という大きな勢力がある。その勢力に絶対負けないような原発にする」。当時の社長那須翔の言葉を“信じて”いた。

東電や東北電力は大きなスポンサーだった。原発の安全云々には触れないという前提で、カネを引き出すために番組も作った。イベントも企画した。

彌右衛門さんのいう通りだ。見過ごして来た責任。それはボクにだってあるのだ。
約3年間、この欄を、あの日以前とは全く違う内容にして、毎日書き続けているというのも、見過ごして来た責任からなのかもしれない。それを彌右衛門さんの言葉で気付かされた。

東電が「事故隠し」を起こした時の県知事は佐藤栄佐久と言う人。彼からも東電のおかしさ、いや、何よりも監督官庁である経済産業省の「おかしさ」について話を聞かされていた。福島と新潟の原発は、彼の反対によってしばらくは稼働出来なかった。しかし、結果、彼は稼働を認めた。
彼なりに「見過ごした責任」を感じてはいるのだろうが。

さまざま伝えられる原発事故が引き起こしている“悲劇”。
他人事では無いんだなという自責にも似た感情。そう、ボクだって、この地に居て、「見過ごして来た人」の一人なのだ。

個人的独白にしか過ぎない話で・・・。

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