2018年4月17日火曜日

「不幸な国を生きる者」として

国連の「世界幸福度報告書2018」によれば、日本のそれは54位だという。去年は51位。幸福度なるものが年々下がってきているらしい。
第1位はフィンランドだ。
幸福度とは「一人あたりのGDP・社会支援・健康余命・社会の自由度と寛大さ・汚職の頻度」などについて分析したものだ。
アメリカも14位から18位に順位を下げた。豊かになっているにもかかわらず、幸福度は低下している。
一人あたりの所得は顕著に増加したが、社会支援ネットワークの脆弱化、政府と企業における汚職の増加、公共機関に対する信頼低下が幸福度を押し下げていると言う。

さすが“日米同盟”と。

何が幸せか。人によってその「観」は違う。
「なにげない日常、なにげない当たり前がどんなに幸せかを3・11で教えてもらった」という人は多い。
小さな幸せは意図しない小さなところにあるということか。

“観”と言うことについて、数学者で教育者だった遠山啓と言う人がこう書いている。
「僕の観というのは一人一人が自分で苦労して築きあげていくものなのだ。
一人一人がそれまでに自分の体験したこと、身に付けた技術、学んだ知識を総動員して、人間とは、世界とは、生命とはなにか、あるいは、人間は特にこの自分はどうやっていきていったらいいか考える。そうして得られた人生観・世界観・社会観などをボクは観と言っている。
これまで、観を持つ人間は政治家や学者などごく少数のエリートと呼ばれる種類の人たちだけでいいと言う人もいた。
それは間違いだと思う。
日本人すべてが、皆、自分自身で創り出した人生観・世界観・社会観・政治観、などの観を持つようになってほしいのだ」。

つまり、遠山啓のいっていることは、世の中の“常識”や“風潮”に流されるのではなく自分自身の“観”に基づいて自分自身を生きるということなのだと思う。

この国はいま、不幸な国だと思う。
自分の“観”を持っている人は少ない。持つことを否定されてもいるようだ。

政治家や官僚。その多くが“観”を持っていない。上に上げた観以外に彼らには“倫理観”が求められる。
それらは、忖度・隠ぺい・偽装・保身という全くの非倫理性に支配される人たちになってしまった。
政治は劣化の一途をたどる。官僚は使命感すら持ち得ない。官僚機構は崩壊している。
そんな支配階級にこの国は弄ばれてもいるようだ。

幸福度が上昇するわけがない。

民の声に彼らは耳を貸さない。支配と言う愉悦を楽しんでもいるようだ。
民主主義と言う言葉は名ばかりにされてる。

さまざまな国民にとって不幸な出来事も、それをどこかに迂回させて何かが企まれているようなきがしてならない。

たとえば熊本地震の被災者。未だに仮設に暮らす人が1万6千人もいるという。
自宅を建てるにも業者がいないからだという。
業者はどこに行ったか。東京オリンピックのために高賃金で働いている。

「いかに生き、いかに学ぶか」。遠山啓の本のタイトルだ。

だから考える。
駄目な政治、おかしな行政。それらがまかり通っているということは、それだけ我々に学ぶ材料を提供してくれているのだ。と。

2018年4月12日木曜日

おかしゃん、花ば・・・

桜の季節である。
川の土手も公園の樹々も、あるいは地蔵堂の一本の樹も、桜いろに染まっている。
あちこちで桜の話しに花が咲く。宴が話題になる。
テレビもあちこちの桜の光景を伝えてくれる。

「3・11」以来、桜と言う毎年季節を彩り、人々の目を楽しませ、こころを躍らせる美しい花に対して、“複雑”な思いを抱いてしまうようになった。
全町避難を強いられた富岡。
何回か訪れたあの見事な夜の森の桜並木。
今年は帰還が許可された地域で、戻った人を含め、観光客の目を楽しませてくれている。

夜の森公園の桜並木は、南相馬小高区出身の実業家であり、教育者であり、衆議院議員も務めた半谷清寿と言う人が、あの地域の入植・開墾に当たり、明治34(1901)年に、理想の村づくりを求めて、不毛の原野に300本苗木を植樹したものだ。
半谷の著作「将来之東北」を実践するかのように。

原発事故後の今頃、桜の季節が訪れようとしていた時期。避難所のビッグパレットのダンボールで囲われた居所の中に、その夜の森公園の桜を写した写真を持参してきた人がいた。
頭を下げに来た東電の社長に「この桜を観てください」と静かに言い、「桜がどうなってしまうかそれだけが気掛かりです」と語りかけていた。

その光景が未だに脳裏を離れない。
2011年の春、桜を観ることに苦悩した。

今日の新聞にある人の死亡記事があった。
水俣病資料館の語り部、前田恵美子さんの訃報。彼女も3歳の時に水俣病を発症している。2013年、天皇・皇后両陛下が水俣を訪問された際、自作の「ピンクの花が好き」という歌を披露したという。

水俣病を書き続けてきた石牟礼道子の作品の中にこんな話が記されている。
きよ子という胎児性水俣病患者の母親が語った話だ。
「死ぬ前の頃でしょうか、桜の散る頃、ある日、眼を離した隙にきよ子は括りつけられていた紐をほどいて廊下に行き、縁側から庭に転げ落ちていました。
“おかしゃん、おかしゃん”という声を聞いて駆け寄ってみると、曲がらぬ手のひらに桜の花びらを握りしめていました。“おかしゃん、はなば”と喋れない口から絞り出すように声を出して。
きよ子は命をかける思いで桜の花びらを手にしたかったのでしょう」と。
そして母親はこう訴える。
「桜の時期に、花びらば一枚、きよ子の代わりに、拾うてやってはくださいませんでしょうか。花の供養に」

悲しく、惨く、そして美しい話だ。

明日は病院に行く日。途中の笹原川の桜は見事に咲き誇っている。
今日の風で花びらが散っていたら、その花びらを数葉拾うつもりだ。
そしてそれを小さなガラスの器に水をはってうかべてみる。
そしてーー。
「桜よ、あなたはいったい何者なのだ」と問いかけてみる。
この7年間がそうであったように。

2018年4月7日土曜日

“神聖喜劇”

大相撲の地方巡業、舞鶴場所。挨拶に立った市長が突然発作を起こして土俵上に倒れた。後頭部も強打したようで痙攣をおこしている。
傍にいた若い呼び出しの様な行司はただうろたえている。関係者らしい背広姿の男性数人が倒れている市長の周りを囲んでいるがなにも手をくだせない。
うろうろして呆然としている。

観客席から女性が数人男性をかき分け市長の傍に行き、心臓マッサージをほどこす。渾身の力をこめての救命措置。

「私は看護師です」と名乗り処置を続ける。
観客の一人が女性が神聖な、女人禁制の土俵にあがっていると声を上げる。
呼び出し行司が「女の人は土俵から下りて下さい」と数回アナウンスする。
降りようとする女性看護師もいたが同僚はそれを止める。

私人として相撲観戦に来ていた女性が目の前で起きた「事故」をみて咄嗟に公人としての看護師になった瞬間だ。

「命を救う」という倫理観に基づいた行動。咄嗟の判断、行動。
彼女らの行動には一点の非もない。
その彼女たちに「土俵から下りろ」と呼びかけた相撲協会関係者。
呼びかけた行司だとされている人物は「土俵は神聖、女人禁制」をいう“伝統”が吹きこまれ、染みついていたのだろう。

テレビ報道でその様子を見ていてなぜか「神聖喜劇」という大西巨人が書いた大作の題名が浮かんだ。

人一人の命を救うために禁を冒してでも救命行為という神聖な行為を選択した看護師。
神聖な土俵には女性を上げてはならないと言うなんら根拠の無い権威づけの“伝統”なるものを口にした行司とされる人のアナウンス。

「仮定の質問には答えられない」とするのが今の政界での常識のようだが、あえて「仮定」を言う。
もし、彼女たちの救命行為が無く、市長が死んでいたらどうするのか。
救急車を呼んだというが、救急車が到着するまでには早くても数分はかかろう。

たとえば脳梗塞、たとえば心筋梗塞、たとえば脳卒中、たとえば大動脈瘤破裂。
市長はくも膜下出血だった。
適格な措置により一命をとりとめた。後遺症も軽くてすむかもしれない。

市長が担架で搬送され女性たちが土俵を下りたあと。その土俵には大量の塩が撒かれたという。
女性があがった土俵は“穢れ”だというのだろうか。

昨日主治医とこの話をした。医師は言う。
看護師たちはかなり訓練された練達の看護師だ。
相撲協会のアナウンスを聞いた時怒りで涙があふれた。医師として使ってはいけない言葉だろうが「ぶん殴ってやりたい」と思ったとも。

「神聖喜劇」、それは旧軍隊に中にはびこる伝統とか慣習とか、それを下にした不条理に主人公が驚異的知識と頭脳で論破していく物語だ。

相撲界にはあまりにも不条理な思考やしきたりがある。その不条理を看護師である女性がからだを張って打ち破ったのだ。

昔から「女性相撲」というのがある。力士としてならば土俵に上がれる。

相撲協会の中にはさまざま「不条理」が存在している。ジャーナリズムは今回のことをもっともっと追求するべきだ。
協会の評議委員長である池坊保子に記者会見を申し入れ、事の顛末と女性としてどう思うかをしかと質してみるべきだ。

看護師を称賛する声は多い。表彰も言われたが彼女たちは断ったそうだ。
「当たり前のことをしただけですから」。

今の不条理に覆われた世の中、人が人としての人命救助という当然の行為。
それは何にも増して崇高な行為だ。
当たり前のことが当たり前とされない、出来ない。そんな根拠の無いしきたりとか伝統とやらはくそくらえだ。

長く風習として有った「葬儀でのお清めの塩」。もう会葬御礼の封筒に入れて渡すところはほとんどなくなったはずだ。
死者は清めの対象になる”穢れ“ではないことにやっと気づいたからだろう。

2018年3月30日金曜日

「無責任の体系」ということ。

政治学者丸山真男の著作の中に「無責任の体系」という言葉がある。
かつての軍国主義時代のこの国の統治システムを言い表したものだ。

極東軍事裁判で「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、かって朝鮮総督であった官僚は「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」と答えた。

丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的に大きな力にひきまわされる精神」と分析した。そしてそれを「無責任の体系」と位置付けた。

 この「無責任の体系」という言葉は、大きな事件を起こした組織が幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われた。

 丸山真男は「無責任の体系」の構造として、上位から「神輿」、「役人」、「無法者」の三つの類型を置き、軍幹部や佐官、民間右翼らはそのどれかに当てはまると書いている。

さしずめ、今の統治機構に当てはめるなら、神輿は首相であり、無法者は安倍信者たちかもしれない。

今、二行か三行に行間を空けて書いている。それは典型的な「官僚文書」の書き方だからだ。
行間は上司や決裁者の手直しが入れやすいように考え出された書式を真似てみた。

森友問題、佐川の証人喚問、予想通りの結果だった。“刑事訴追の恐れ”という逃げ口上の連発。
かつての“記憶にありません、ございません”の連発が思い起こされる。
証人喚問と言う立法府の持つ国政調査権行使も“抹殺”されたに等しい。

証人喚問の宣誓文と補佐人と言う名の弁護士の入れ知恵で連発される答弁にはあまりにも乖離がありすぎる。

真実は語られていないという事。

専門家と称する人達がメディアで「解説」らしきことを言う。
国民感情とは、それは、かけ離れている。

国は「専門家」によってなりたっているのではない。あくまでも国民大衆によってなりたっているはずだ。

政治家は政治の「専門家」だろうか。違う。
マックス・ウエーバーの言葉を借りれば「職業としての政治家」だ。

国民は選挙と言う民主主義の原則で、政治家の首を切ることは出来る。だから常に己の保身を図り、その「職業」が無くならないように意を用いる。

官僚の首を切ることを国民は出来ない。首を切れるのは政治家だけだ。だから官僚は国民の意向をさほど気にしない。身の保全は左右されないからだ。
生殺与奪の権を握る政治家にだけ、政権にだけ尻尾を振る。

無責任の体系の無責任たる所以だ。
「公文書の棄損、改竄は日本の政治史に残る悪行だ」。小泉進次郎をして言わしめた歴史の改ざん。それが、歴史の隠ぺい、改竄が日本の歴史を正史としなくなっている。

日本語を読めない、使えない政治家が教育を語る。笑い話にもならない。
麻生太郎という男はどこまで「バカ」なのだろう。
「T PP」のことを森友ばかり書いて日本の新聞は書かないと言い切る。そんな新聞に存在価値は無いというようなことを断言する。

無知も甚だしい。ちゃんと大きく書いているではないか。
大臣の机の上には毎日大量の新聞の束が置かれている。重要な、その省庁に関係する記事は秘書官が、事務官が付箋をつけている。

麻生が辞めるとか辞めないとか、無意味な政局記事に労力を費やすより、彼の発言がいかに無知であり嘘であるかをもっと書くべきだ。
マスメディアまでが無責任の体系の中に組み込まれているこの国。

ほんと、国民が覚醒する以外にこの国は取り戻せないのではないか。

怒りに狂いながらの日々。脳梗塞の後遺症でリハビリに通っているが、最近腹が異常に膨らんできた。運動しないからだ。自己責任だ。他人任せのリハビリではダメなのだ。自らが努力しないと。
僕は「無責任の体型」の中にある。そう自覚することしきり・・・。

2018年3月25日日曜日

「日本の統治機構は崩壊した」

今、日本の政治は末期的状態にあるとあらためて思った。
官僚組織も機能不全のような状況だ。

旧友の郡山出身のかっての高級官僚、福島県が輩出した“偉人”朝河貫一の顕彰会の会長とまた会った。
東京で暮らしている彼は今の政界、官界の堕落、腐敗ぶりに忸怩とした思いにかられている。その想いを語りたかったのだろう。
数時間語り合った。


内閣人事局は廃止すべきだ。政治家の顔色を窺うようになった官僚はこの国を間違った方向に導く。
彼の現役時代は有り得なかった事態になっている。
政治家がお粗末すぎる。その根源は小選挙区制度にある。
小選挙区制も廃止すべきだ。

お互いに思うことは一緒だった。多少の異論はお互いにあったものの。
官僚OBは、官僚同士のつながりがある。各種の会合もある。
“情報”を抱えている。
そして矜持を持っている。

その余韻で書く。
「森友学園問題」、国有地の不当払い下げ問題を巡る官僚の公文書改竄、隠ぺい問題、さらには「嘘」の答弁を繰り返してきた佐川宣寿前国税庁長官への証人喚問が明後日行われる。

たぶん「記憶にありません」、「刑事訴追の恐れがあるので、答弁は差し控えます」。そんなやりとりで終わるのではないかと想像する。
そんな想像の中で野党がどれくらい“真相”を引き出すことが出来るのか。

官邸と佐川の間で綿密な打ち合わせがされていることだろう。
大方の国民が関心を持つこの証人喚問。NHKは高校野球を理由に中継しないと言う。高校野球はEテレで中継できるではないか。

安倍夫人や御付の秘書だった女性官僚、迫田理財局長の証人喚問。
それを要求する野党に理があると思う。
異例の長期拘留中の籠池に野党の議員が面会した。

改竄前の公文書にある彼の発言は「その通りだ」と拘置所の寒さで罹ったあかぎれ、ひび割れの手で語ったと言う。
何があっても籠池は囚われの身から解放されないのだろう。
“保釈”にでもすれば何を語り出すかわからない。それを官邸や一部の自民党議員は危惧しているからだ。

安倍官邸の「闇」。

国会の委員会で常に目を閉じている関係者の一人の麻生太郎。
「悪い奴ほどよく眠る」。そんな言葉を想起させる。

働き方改革は嘘のデータでその政策の根底が歪んだ。
前川喜平の“授業”には自民党文教族が圧力をかける。

泥縄であろうと何であろうと改憲に向けての足掛かりをつけようとはかる。

独裁政権が忌み嫌うのは民主主義と言う言葉のようだ。
この国の民主主義は危機に瀕している。

まがりなりにも我々は民主主義国家に生きている。
独裁国家のロシアや中国、北朝鮮とは違うはずだ。
しかし、今この国の実相はそれらの国に近い。

100%信頼するアメリカには鉄鋼製品の関税をかけられた。
「トランプファースト」。米も独裁国家に近づいている。
東アジアの問題に関しては日本は蚊帳の外に置かれた有様。

朝河貫一存すればいかなる言論を述べただろう。
今の時代にコペル君と叔父さんがいればどういう会話がされるのだろうか。

少なくとも「卑怯な振る舞いはしてはいけない」と叔父さんは諭すだろう。

安倍別働隊の小池百合子は都の迷惑防止条例の改正を目論む。
この中では「粗野な言動」があげられている。つまり官邸や国会前でのデモのシュプレヒコールも規制の対象になる。
言論弾圧に等しい。
「みだりにうろつくこと」も対象だ。高齢者の病気の一つである「徘徊」もみだりにうろついている行為だ。

放送法第4条を撤廃すると言う。公正な報道をうたってきたこの条文。それを盾にテレビは委縮させられてきた。
自分たちに都合のいいテレビ放送をさせるという事なのだろう。そういう局を支援するという事なのだろう。

書いているだけでも息が詰まってくる。ケツの毛を抜かれた官僚。無知蒙昧な政治家。
森友疑惑は改竄文書は朝日新聞のスクープだ。毎日が後をフォローした。
今や権力の監視や欺瞞行為を摘発できるのはジャーナリズムの一部だけになった。ジャーナリズムがどれだけ覚醒し、権力と対峙していけるのか。

しばらくはその動向に身を委ねてみようかと。

2018年3月18日日曜日

「国民のカルテ」としての公文書


いわゆる森友問題でこの国は揺れている。
森友問題と言う表現は事を矮小化させる。
国有地の不当払下げ問題と呼ぶべきだ。

公文書管理法は、公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけている。
その公文書が改竄、隠ぺいされることは何を意味するか。
民主主義の根幹が失われるという事だ。

公文書とは国家による国民のカルテだ。
公文書とは歴史の記述だ。

そのカルテが改竄、偽装されていたらどうなるか。

もし、病院のカルテにそういうことがあれば、患者は間違った治療や投薬を受けることになる。医療の間違いは患者の生命にも関わる。

公文書の改竄は国家を死に至らしめるということだ。

国の歴史が隠ぺいされ、あったことがなかったことにされるという事だ。

城山三郎の著名な作品に「官僚たちの夏」というのがある。
通産官僚の姿を書いたフィクションだ。いや、ノンフィクションだ。
文学として書かれたジャーナリズムだ。

登場する人物は実在した官僚や政治家がモデルとなっている。
主人公はあのミスター通産省といわれた佐橋滋。日米貿易摩擦が国家的問題となっている時の官僚たちの姿を書いている。
省内の派閥争いやノンキャリ官僚の実直な働き方。
官僚としての国家観。

自分たちの政策を実現させるべくいかにして時の政権と関わっていくか。
政治家を説き伏せるか。池田勇人派、佐藤栄作派、その他の自民党の実力者。

政治家の思惑を巧みに利用しながら国家の為という信念で動いた官僚たちの姿。

今の官僚たちと比べれば今昔の感しきりだ。

貿易摩擦でやり玉にあがった自動車産業をいかにするか。
ノンキャリの官僚は自動車メーカーの下請け工場にまで出向く。
現場主義の官僚たち。

この小説は「官僚のカルテ」だ。

森友問題を見ているとこの小説が浮かぶ。

そして考える。森友問題とは何かということ。なぜ森友問題が起きたかということ。
それは「○(まる)政」問題であり、保身を願う役人にとっては至上命題だったということ。○政とは政治家が絡んだ、政治から要請があった課題だという事。

しかし、なぜ政治家があるいは政治家の妻がそれに関与することになったのか。
そこに、この問題の“暗部”を看るのだ。

いま官邸は通産官僚で占められている。1級官庁の財務省は官邸の中で目立たぬ存在になっている。

何故籠池が政治家とつながりを持てたのか。安倍昭恵と関わりを持つようになったのか。
それらの接点の根源がわからない。

「もし、わたしやわたしの妻が関係したのであれば総理大臣どころか議員もやめます」と言わしめたのは籠池側が”悪だ“という認識があったからだろう。

政治家の質や力量は一時と比すまでも無く低下、劣化している。
官僚の書いた紙を読まなければ演説も答弁も出来ない。

政治主導なる“妄言”に国民は欺かれている。
内閣人事局なる“官邸主導”の欺瞞を見抜いている。

だってそうでしょ。
昨日までは「適材適所」と言っていた人物が、公文書改竄の元凶にされる。

安倍夫人の名前が黄門さまの印籠の如くに書かれている。発言内容も書かれている。
「妻に確かめたところ。そんな発言はしていないということだった」と安倍は言う。
ならばあの改竄前の公文書は虚偽の事実を書いていたということになる。
ならば「適材適所」とされた人物やその部下だった官僚が「嘘」を記したということになる。
ならば告訴するべきだ。国政を混乱させ、名誉を毀損させられたという“罪状”で。

明日の参院予算委でどんな論議が交わされるのか。
週末の世論調査がどんな数字となって出るのか。

週末も安倍は、麻生は、側近を集めて逃げ切り策を、想定問答を話し合っていることだろう。

昨夜、友人たちとの集まりがあった。この問題に一人が話を向けると堰を切ったようにめいめいが口を開き、意見を語っていた。
大方が疑問を呈し、疑念を語り、あげくこの国の行く末にまで論議が及んでいた。
市井の民の雑談と言ってしまえばそれまでだが、国民の大多数が関心を持っていることだけは間違いない。

週末に選挙区に帰った議員たちはどんな選挙民の声を聞いてくるのだろうか。

2018年3月11日日曜日

「3・11」前後譚

7年――。何が変わり、何が変わっていないのか。
さっぱりわからない。
形状や景観ではなく、根底はなにも変わっていないのではないかと思う。

「原子力災害」は継続中だ。
災後、除染という作業があった。
庭の“汚染土”や“草”は剥ぎ取られ庭の一角に埋められたままだ。
何回か春が来て、夏がきて、冬が来た。冬には庭は雪に覆われた。
地中のフレコンバックはすでに破れているだろう。

「3年間の保管です」と市の担当者はいった。その頃、運び込まれるはずの中間貯蔵施設は建設の緒にもついていなかった。

いずれまた掘り返されるのだろう。そんな“確信”のもと庭の手入れはまったく放棄している。

県内各所には仮置き場というのが設けられた。中間貯蔵施設は未完のままだ。
仮置き場からフレコンバックがダンプカーに積まれて運び込まれている。
10トントラックが列をなして、貯蔵施設に向かう。
道路は損壊、陥没の危機にある。

30年後中間貯蔵施設から廃棄物は県外に移送すると国は法律で定めた。
「引き受ける」ところはあるのか。有り得ない。
最終処分場になることは明らかなのに、福島県民を国は騙し続ける。

メルトダウンし、溶け落ちた核燃料。あの1Fは未だに防護服を必要とし、短時間しか滞在できない高線量地帯だ。
作業員の被ばく量は低くは無いはず。
しかし、その実態は把握もされないし、隠されたままだ。

高濃度の廃棄物、取り出したあとのデブリや再処理工場に運び込まれている核のゴミ。
海中深くに埋め、10万年保管すると言う。

先日、県北の河川で「セシウムボール」と呼ばれる放射線が付着した微粒子が発見されたという。
川にあるものは海に流れ出る。

7年―。何も終わっていないのだ。

災後、福島の子どもたちは「ガラスバッジ」と呼ばれる積算線量計を首から下げさせられていた。その光景はいつの間にか消えた。

7年前の3月、爆発以降、不要不急の外出は避けろと言われ、外出時には帽子、マスクを着用するように言われた。家に入るときは付着物を払い、手洗い、うがい、洗顔を必須とされた。
同じ光景や対応が今でも求められている。その対象はインフルエンザと花粉。

なぜか笑える。

3・11にあわせてメディアはさまざま特集を組む。
それらを無意味だという気はさらさらない。しかしだ、その大量の「情報」を消化し読み取る能力は持ち合わせない。
発信する側はそれを為したことで“満足”する。受け手の側は許容範囲を超える。

「3・11」を挟んで国会は混乱し揺れる。森友問題(この呼称は矮小化する感ありだ。公文書偽造、国有地不当払下げ問題とすべきだ)を巡ってこの国の形が壊れるような事態にある。
佐川が辞任した。そんなことはどうでもいい。事件に関与していた一人の官僚が自殺した。組織の悪弊、矛盾に耐えきれなかったからではないか。

総理大臣の名が取沙汰された“犯罪”は死者を伴う。田中角栄の秘書田中利夫さん、運転手の笠原さん。
竹下登の秘書青木伊平さん。
皆、仲のいい知り合いだった・・・。

佐川や麻生が辞任を巡って記者会見している頃、同時刻。安倍は日本テレビの社長や解説委員長と会食していた。近畿財務局の官僚の自殺ももちろん知っていたはず。

「許されざる者」。

その非情さはどこからくるのだろうか。

そして「3・11」から8年目。パラリンピックはともかく、この国は安倍肝いりの東京オリンピックに向けて邁進していくのだろう。その“負”の部分には目もくれないまま・・・。

避難生活を送る人がいる限り、立入り禁止区域や強制避難区域がある限り、福島にとっての「3・11」は全く終わりをみせない。

損害賠償は今月で打ち切られる。
「カネ」をめぐる人間模様が露呈されている。それは大方「えげつない」感情だ。

7年はなんら「区切り」とはならない。安倍はまた言い訳のように福島に昨日来た。彼が“視察”したものは「いいこと」だけだ。
「負」の部分に彼らの目は向かない。いや見ようとも感じようともしない。

「原発事故」に多額の国費が投入された。
再稼働を「コスト」で論じる奴がいる。事故があれば大量の“コスト”が失われる。

フクシマは実験場であり、学びの場なのだ。
書きながら怒りが満ち溢れてくる。この国はどこに行くのだろうと思いながら。

2018年2月26日月曜日

戦争が祭りの後に立っているのか

ピョンチャン五輪が終わった。
日々伝えられる日本選手の活躍に国中が湧いた。
「努力は必ず報われる」と競技結果を伝える新聞は書いていた。
なんともありきたりな文章だ。
運が付いて回っていることもオリンピックは証明している。
天候の問題もあれば、他人のミスに巻き込まれるという不運もある。
運は努力で克服出来るものでは無い。

このオリンピックほど政治が外交が介在した「平和の祭典」は無い。
競技とは別に政治の陰が見え隠れしていた。
競技中は選手が主役だったが。

開会式には金正恩の妹らを送り込み、閉会式にも「高位級代表団」を送り込んだ。
韓国の文政権も「政治利用」した。南北融和、祖国統一という旗印を掲げて。
アメリカもそうだ。トランプの愛娘を送り込んだ。
東アジアの戦争の火種となっている北朝鮮とどう対処するのか。

安倍のオリンピック利用外交は徒労に終わった。閉会式には要人は行かない。
行っても無意味だからだ。

なぜ北朝鮮はこれほどオリンピックに“介入”してくるのだろうか。
北の真意や真相は不明だ。なにやら蠢く中国も不気味だ。
祭典が終わらぬうちからトランプは北への制裁を打ち出している。
「瀬どり」を阻止し、それが成果を挙げないのなら次は軍事行動だと威嚇している。

北朝鮮と米国が会談する用意があると北は言った。
アメリカは警戒感を抱きつつも双方腹の探り合いと言うところか。
常に軍事的行動をちらつかせるトランプ。

とにかくトランプと言う男は暴力的な男だ。
武力で事を解決すると言う思想の持ち主だ。
フロリダ州の高校の銃乱射事件を以って、教師に銃を持たせ、持った教師にはボーナスを支給すると言う。
銃でアメリカ社会の病巣である銃社会の秩序が保てるとは思えない。
教鞭の代わりにライフルを教育の場に持ち込むと言う発想。
トランプとはあのカードのジョーカーのように“悪魔”だ。

核をもてあそぶような金正恩と発想は同じなのだろう。
似た者同士の争いと笑って済ませる訳にはいかないのだ。

きのう長年の親交がある元外交官とあった。「アメリカ」についてもろもろ話した。彼は全くの保守の人間だ。
全米ライフル協会といういわば極右の様な団体からの資金援助。それらの人を核とする35%という数字の熱狂的トランプ支持者がいるということ。
彼を辞めさせるには弾劾しか道は無いだろうという事。
アメリカと言う国の威信は大きく揺らいでいるということ。
トランプをどうにかしないと世界の秩序は維持できないかもしれないということ。
そんな事を彼は外交官の矜持を持って語っていた。

聖火がゆっくり消えて行った。アリランの歌声が郷愁を誘った。
次にともるのは聖火ではない。戦争と言う火だ。そんな予感が杞憂であって欲しいと願うのだが。

日本の政権はアメリカに、トランプに追随している。安倍の堅い支持層も35%だ。

米朝もし戦わば。日本は完全に巻き込まれる。
それがもたらす惨禍は・・・。

五輪でメダルを獲得した選手たちは凱旋帰国してくる。出迎えの歓喜の声が湧く。テレビは「後日談」で選手を引きずり回すだろう。

華やかな宴の後はさびしい。その寂しさが戦争と言う悲しみに変わったのでは選手たちがあまりにも気の毒だ。

オリンピックで「戦」という言葉を使うのは止めようよ。あくまでも「競」であるべきなのだから。
「競」であるからこそ結果が出た後にお互いを称えあうことが出来るとのだと思うから。
それを立証してくれた選手もいる。

取りあえずオリンピックと政治について書いてみた。オリンピックと政治は“密接”につながることは否めない事を再認識した次第。

2018年2月20日火曜日

「平昌オリンピック」に思う事

オリンピックは必ず「物語」を連れてくる。その物語は誰をも心の美しさに誘ってくれる。その物語を求めてオリンピックを観る。
そこには閉塞感に満ち溢れた一般社会とはかけ離れた「人間の美しさ」があるからだ。

スケートの小平奈緒選手の光景は美しかった。彼女が勝利したと言うことだけではない。永遠のライバルと言われた韓国の李相花選手とのお互いをリスペクトした光景だ。

そして彼女を支援し続けた茅野市の相沢病院の存在だ。彼女に国は今まで何を支援したか。何もしていない。スケート連盟はプレッシャーだけを与え続けていた。

彼女と李選手の涙の抱擁の姿を見て普通の国民は感動したはず。
一部の嫌韓に凝り固まっている人は別にして。
スポーツの世界ではスポーツを通してしか実践できない“友好”があるのだ。
スケートフィギアの浅田真央とキムヨナもそうだった。

嫌韓のトップである安倍が祝意を表した。李選手との抱擁の光景に感動したとも言った。日の丸の小旗をちらつかせた自分の写真もつけて。

開会式に安倍は出かけた。全く無意味な訪韓だった。
北朝鮮から金与正という金正恩の妹らが韓国に来ていた。
「微笑み外交」と日本のメディアはある種の揶揄を込めた表現をし続けていた。
「北朝鮮に騙されるな」と。

南北朝鮮の合同チーム。文韓国大統領の政治的思惑がそこにあるかもしれない。北には北の思惑があるかもしれない。
それについて他国が憶測を持って論ずることに疑義がある。
同じ民族同士。それに意を用いるべきではないだろうか。
束の間の、見せかけの融和かもしれない。
しかし、何事にもきっかけというのがある。それになったとすれば、それこそオリンピックが平和の祭典と言われる所以に立ち返れるのではとも思う。

開会式での金与正の席の真近に席があった安倍。一度たりとも顔を見ようともしなかった。笑顔で挨拶を交わすだけでも日朝関係に変化がみられるかもしれないのに。

「北への圧力強化」は文大統領にいなされた。拉致を言ったと言うが相手からはそのことは聞かれなかった。


朝鮮半島、そこはかつては日本、大戦後はロシア、侵攻を阻止するアメリカ。
いわゆる大国にいたぶられてきたところだ。

米ロの覇権争い、領土争いで38度線で分断された民族だ。
南北朝鮮はいまだに戦争状態なのだ。単に休戦中なだけだ。理屈を言えばだが。

北と南の分断は果たして半島民族が望んだことだったのだろうか。

政府はすでに金メダルをとったフィギアスケートの羽生や小平に国民栄誉賞を授与する検討に入っていると聞く。国民栄誉賞なるものでオリンピック選手を表彰する。スポーツを人気取りにしようとしているの感大だ。

受けるか受けないかは選手の意思次第だ。
ただ、小平にはお願いしたい。なんとか時間を作って相澤病院にメダルを見せに行って欲しいのだ。
応援した入院患者はそれを心待ちにしているはずだ。
銀メダルを取った時病院に行った彼女は患者から大歓待を受けたとも聞く。

彼女の快挙に日本中が感動した。病床に伏せている人には尚更感動を与えるだろう。病を癒す最高の治療にもなるだろう。
金メダルを獲った選手は強者だ。獲っただけでは単なる強者で終わる。
弱者に目を向けることで真の強者となる。
小平はきっとそうするだろう。
「多くの皆さんに支えられて」。その多くの皆さんと言う言葉の中には病める身ながらも彼女に声援を送り続けたあの病院の患者さんが含まれていたと思う。
病人と言う弱者が強いアスリートに力を与えたのではないかとも。

メダルに手は届かなかったものの,勝者にはならなかったものの、力及ばずだった敗者も大勢いる。時には仲間のサポートに回った選手もいる。
悪びれない敗者も賞賛に値すると思うのだけど。

きょうもNHKのテレビはメダル獲得数を話題にするだろう。メダルだけがオリンピックだけではない。メダル至上主義の日本のメディアにこの国の“後進性”を見るのは“偏見”か。

2018年2月11日日曜日

なみだふるはな

石牟礼道子さんが亡くなった。90歳。パーキンソン病の悪化によりという。
“水俣病”はまた一つ消えていく。

「3・11」の後、福島に対するデマがふりまかれ、原発事故の被災者になった多くの人たちの苦悶の日々を見聞きする中で、文学に逃避していた僕は思い立ったように石牟礼道子の「苦海浄土」を久しぶりに手にしていた。
なぜその本を選んだのか。水俣と福島には重なり合うものがあると思ったからだ。
当時、このブログにもそのことを書いた。

福島と水俣、福島と沖縄、福島と広島、長崎。日本人の一部の奴らが好む「差別」がそこには共通項としてあったからだ。

「苦海浄土」はジャーナリズムとしての完全な文学だ。

チッソが垂れ流した産業廃棄物としての有機水銀中毒事件。これほど水俣の漁師に関る人達を痛め苦しめ、絶望に追いやった事件は無い。
かつて足尾銅山事件と言うのもあった。鉱山から流れ出る有毒な廃棄物の川への垂れ流し。
それと闘った田中正造のこと。
そして、原発の爆発事故という絶望的事件。放射能に怯えて暮らす人々。そして抗議の自死者。

絶望の極限に陥れられた不知火海。そこから抜け出すには浄土に行くしかない。
豊穣の海を破壊し、絶望の海へと変えたものは。

患者一人一人の声に耳を傾け、それを綴り、文学として表現したもの、遠藤周作をして最高の文学と評させた作品。

藤原新也と言う写真家であり作家である人がいる。彼は多分この石牟礼作品を読んでだろう。「日本浄土」という作品を世に出している。
彼が昔練り上げた写真と巧緻な文章による「東京漂流」。
写真は人々の生きざまをレンズを通して表現したまさに写真ジャーナリズムだった。

「3・11」の年、藤原は2か月にわたって福島に身を置き、レンズを通して「福島」を伝えた。

そして石牟礼との対談を一冊の本にした。
「なみだふるはな」

“時を経ていま共震する二つの土地。その闇のかなたにひらく一輪の花の力を念じつつ・・”と藤原は言う。

「1950年代を発端とするミナマタ。そして2011年のフクシマ。
このふたつの東西の土地は60年の時を経ていま、共震している。
非人道的な企業管理と運営の果ての破局。
その結果、長年にわたって危機にさらされている普通の人々の生活と命。
まるで互いが申し合わせるかのように情報を隠蔽し、
さらに国民を危機に陥れようとする政府と企業。
そして、罪なき動物たちの犠牲。
やがて母なる海の汚染」

藤原が序にかえてものした“二つの歴史にかかる橋”という一文の一部。

あとがきにある石牟礼さんの“野苺の記憶”という一文の一部。
「東京漂流と名付けられた本について長いこと考え込んおりましたが、漂流と言う言葉が今世紀を予見していることを具体的に知ることが出来ました。

ある方がこんなことをおっしゃいました。
「東京まで行ってみたがなあ、日本ちゅう国は見つからんじゃった。探しきらんじゃった。
どこにゆけばよかろうか。
水俣は日本の外になっとるにちがいなか。日本から見れば、水俣は行方不明になっとるにちがいなか。
家族全部水俣病になって、もう3代目、いやいやもう4代目になっとる。
ひょっとすればわざと、失くしてなくしとられんかもしれんと邪気をまわしたりして、こりゃ独立して、もう一つこの世ば作れちゅうことじゃなかろかなあ」
今は亡くなった、患者さんの言葉です。

我々は「恥の文化」を忘れている。あらためて痛切にそう思わされた。
3・11後、琉球独立・福島独立と書いた自分がいた。

文学者であり詩人であり、人の道を生きた石牟礼道子さんに弔意を捧げる。

2018年2月5日月曜日

「バカ丸出し」ということ

子供の頃よく言い合った。「バカ丸出し」「まるでバカ」。
自分で自分を「丸バカ」と呼んでたやつもいた。

養老孟司の著作を借りるまでもなく、この国は今「バカの壁」の囲われているような気がする。政治家はまるでバカの集まりのような様。
官僚も物を言えないバカ。
それらのバカどもに我々はバカにされている。

官僚の書いた紙を読むしか能の無いバカ。
質問通告が無いから答えられないという首相のバカ。
日本語を常に読み間違えるバカ。

どんな質問が野党からあっても答えられるのが、その資質を持っているのが首相であり、大臣だ。職責だ。答えないのは職務放棄だ。その任に非ず、だ。

開き直る閣僚に手をこまねいている野党。
政権を追い込める「ネタ」を生かせない野党。
政権に対峙するよりも自分たちのエゴで離合集散を繰り返す野党。
国民のことを考えるより自分たちの都合を優先させる野党。
バカだ。

仮装通貨なるものにのめり込む人々がいることを最近知った。
とにかく儲かる仕組みだったらしい。
ネット一つで億のカネを稼ぐという。
「億り人」と称し、夜な夜な都心の高級バーで話し合いをしているとか。
カネの亡者というバカ。
中には生活費をねん出するためにこの仮装通貨の世界に、ネットの闇に舞い込んだ若者もいるという。悲しい話だ。

不倫報道に血道を上げるワイドショー。相撲界の騒動に時間を割くワイドショー。
視聴者を「バカの道」に誘っているようだ。

フェイクニュースと言う言葉を連発し、自分の意に沿わない政敵の攻撃を政治だと勘違いし、新兵器の開発を誇示し、武力で世界の覇者になろうとするアメリカの大統領。最悪の大統領。その人を支持する37%のアメリカ国民。
バカになったかアメリカ人。

かつて変人、小泉純一郎は田中真紀子を巻き込んで「自民党をぶっ壊す」と連呼して首相になった。
じゃ自民党はぶっ壊れたか。壊れていない。バカは増殖された。
今は反原発の士としてもてはやされている。正義の味方ぶっている。
バカと変人は紙一重だ。
原発推進の自民党に息子は加担し、人気を博している。

その息子の功績だけではないだろうが、名護の市長選では自公が推す候補が勝った。公明党の功績大だ。
名護の人口はここ数年6千人も増えている。

本土の人間が沖縄を語ることにはいささかの躊躇があるが、やはりあの沖縄戦は過去の出来事になったのだろう。
基地よりも日々の経済と苦渋の選択をしたウチナンチューもいるはず。

“バカ丸出し”のような世相を嗤う。

「バカとなんとかは風邪ひかない」と子供の頃言われていた。

「バカ」と書くと差別用語だとご批判なさる向きがある。

3・11のあと、トヨタのリ・ボーンと言うCM。ビートたけしとキムタク。
三陸の海に向かってたけしが叫ぶ。

「ばかやろー」と。

あのばかやろーにはいろんな意味を感じる。津波へのやるせない感情。
手をこまねいている国への怒り・・・。

バカとハサミは使いよう。時としてそれは「真言」となり得るとも思い。

ここ数日、このバカ爺は風邪をひいて寝込んでいました。

2018年1月24日水曜日

大雪と”働き方改革”

きょうの郡山は雪が降ったり,舞ったり,止んだり、時々晴れ間がのぞいたり。
真っ白な田んぼが目に痛い。

日本列島は連日寒波にさらされている。
寒波は大陸からのものだという。
大陸も大雪にさらされているだろう。
しかし、そのニュースは伝えられない。

なにか海外で事故や事件があるとすかさず話題にされるのは「日本人は・・・」。

それにしても、過日の月曜日の大雪は酷かった。
郡山にも大量の積雪。我が家も雪に埋もれた。車も埋もれた。
予定されていた病院も断りを入れた。
担当医は「病院の周りは大変な事になっていますから来ない方がいいですよ」。
優しい先生だ。

テレビや新聞はおおかた東京の大雪被害の話題。連日。
もはや当たり前のようになった大雪による交通網の切断。帰宅難民となった人達。
被害にあったのは会社勤めの人だけではなかろうが大半は「働く人」だ。

雪を覚悟で出社し、閉じ込められた車内で「生き地獄だ」とツイートする。
東京が雪にもろいのは先刻承知の事。
それが判っていても仕事に出掛け帰宅困難者となる。
雪でも働きに出掛けなくてはならないのだ。

交通網がマヒしている中、国会では総理大臣様が「働き方改革」を叫ぶ。
夜は公邸に泊まる。
雪に難儀はしていない。
昨夜は公邸で“宴会”だ。

なんだか嗤える。このばかばかしさは笑う以外に無い。

巨大化した都市東京とはいったい何なんだろう。

一夜明けて雪がおさまった東京。道路には通行不可能やマヒ状態は残ったものの働く人たちは黙々と職場に向かっている。
天候のせいだとはいえ、死ぬような思いまでして行かなければならない会社。

働き方改革ってなんだ。大事な言葉が空疎に感じられる。

ロシアでも先日大寒波があり零下60何度とか。
日本列島をまだ寒波が襲うと気象予報士が言う。

寒波、寒波・・・。地球は温暖化なのか。定説に湧く疑問。
地球はもしかしたら大昔にの様な「氷河期」を迎えているのでは。

幸いなことに、というかなくてよかった大停電。電力需要は95%になっていたとメディアが伝える。

あの大雪が数日続いたら電力はもたない。エネルギーを持たない災害がおこっていたのでは。
交通マヒで物流がストップした。
生活の“非常事態”だ。

草津の白根山が爆発して犠牲者が出た。爆発の予兆がないはずの山だったのに。

明らかに自然の様子がおかしい。不気味だ。小さい地震も多発している。

アラスカでマグニチュード7,8の地震。
フィリピンの火山は大爆発。
あきらかに地球を取り巻く環境はおかしい。

科学技術の留まるところを知らない進歩。それが自然の脅威とどう向き合えるのか。

コンピューターシステムで運行されている電車、地下鉄、バス、タクシー。
システムは自然の前では無力化する。

自然災害はすべて「一過性」にされる。
噴火予知連絡会なる専門家の集まりも、「想定外」という言葉で、無力さを示した。

雪の残る国会では今日から「決して熱くない」論戦なるものが始まる。

質問要旨を渡し、答弁は官僚が書き・・・。

予算委が始まると霞が関は大変だ。
廊下トンビの政府委員なる役人が野党を回って質問要旨を貰いにまわる。
それを受け取った役所では徹夜の構えで大臣答弁を作る。

役所の周りには深夜まで帰宅待ちのタクシーがエンジンをかけたまま待機の長い列。

働き方改革なんでしょ。役人だって対象でしょ。タクシー代は税金ですよ。

なんだか急に安倍はピョンチャン五輪の開会式に行くという。
ほんと、この人目立ちたがり屋なんだね。

意味不明の外遊の多々。かかる膨大な費用。
あなたの“働き方改革”をしたらいかが。
役人が書いた紙しか読めない”無能“な閣僚の方々の働き方改革してみては。

2018年1月17日水曜日

いくつかの大地震のこと

大相撲の初場所が始まっている。
貴の岩への暴行事件をめぐり醜態をさらした相撲協会、しかも立行司の不祥事。なにがあっても連日の大入り満員だ。
何があろうと「声なき声」は国技館に行き土俵に目を凝らし歓声をあげる。

天皇ご夫妻は恒例の観覧を取りやめられた。

相撲中継時にたまたまであろうが地震速報が流される。
きのうも福島県沖、震度1が伝えられた。
このところ地震が多い。数日前は北海道で震度4、宮城沖、福島沖、東京湾、千葉県沖・・・

つい先日は北茨城と富山沖で同時刻に地震。緊急地震速報が携帯電話を鳴らした。

海の向こうでもマグニチュード7以上の地震の情報がしばしば伝えられる。

またこの国のどこかで大地震が発生するのではないか。そんな不安が絶えない。

23年前の今日、あの阪神淡路大震災があった。6434人が犠牲になったあの惨禍。
今も地震があった時刻には遺族を含め、関係者が発生時刻の午前5時46分に合わせて慰霊の灯篭に手を合せる。

郡山でも一時は公園にキャンドルをともして慰霊の気持ちを伝えていた。

25年前には北海道の奥尻島で大地震があった。200人以上が犠牲になった。

2年前には記憶に新しい熊本地震があった。大きな余震が重なった大参事。

そして何よりも間もなく7年を迎える東日本大震災。

神戸ではあの瞬間に誕生した赤ん坊がいた。過酷な環境の中で生を得た子。
「生ましめんかな」の光景ががあの時あった。

東の本大震災時も東北では20人ほどの赤ん坊が誕生している。いわば「奇跡の子」だ。

「災害を語り継ぐには、何があったかを知るだけではなく、被災者がどう感じたか、その“感情の記憶”をつないでいくべきだ」。そう、そこにあった事実だけではなく。

人は感情の記憶を消すことはできない。いや、その記憶を消してはならない。

大災害はその時もその後も「死」をもてくる。
しかもそれらの中にある“孤独死”。

地震はじめ天災の前ではあまりにも人間は無力だ。学者も無力を告白した。
予知は不可能なのだ。

地震がいつ来るのか。誰もわからない。大地震に備えましょう。その呼びかけは「空語」にしか聞こえない。

もし人間に出来ることがあるとすれば、その死を悼むだけではなく、死者をなるべく少なくするような手立てを国を挙げてやるべきだ。
死者を生む兵器の開発、購入に国家予算をつぎ込むのではなく、災後の備えを計ることが政治のはずだ。
食糧や生活必需品の備蓄だけでは無い。
高齢化社会と言う構造の中にあって、医療機関をいかに守るか、患者を守るか、酸素タンクを確保しておくか・・・。
そして子供を・・・。

国民の生命、財産を守る、それは“抑止力の向上”などという戦争ごっこの話しでは無い。

繰り返す。地震はいつ、どこにくるかわからない。防ぎようが無い。戦争は人間の意志で防げる。

きょう17日は親友の祥月命日。はじめての命日。遺影の前でしばし語らってきた。
きゅうの雨は冷たさを伴って降っている。これとても自然の為せる業ではあるが。

2018年1月11日木曜日

変化の年としての平成30年

暦とはある意味非常にうまく作られたものかもしれません。
人の一生についても「干支」をもとにして60歳を還暦としました。
それは時代についてもあてはまりそうです。

今年から60年前は、昭和33年。もろもろ変化を予測させる年でした。
ようやく戦後の空気が変わりはじめていました。

モノクロのテレビが登場したからわずか数年。テレビは各家庭に急速に浸透しはじめていました。
カラー化されるとは誰も予想していませんでした。

フィルムの映像がVTR化されるとも思っていませんでした。
団地族が雨後の竹の子ように生まれていました。

インスタントラーメンが出来ました。今のインスタント時代が幕を開けていたのです。

1万円札も発行されました。岩戸景気の幕開けのような時代でした。

その頃17歳の少年は「警職法反対デモ」に連日のように参加していました。
それは去年の共謀罪法の端緒だったのかもしれません。

テレビが衛星中継機能を持つなんて誰も予想していなかった。
電話もすべての家庭には行き渡らず、電話を引くには多額の債権購入が必要でした。

しかし、誰もが何かの変化を感じ取っていたようです。

そして60年後、テレビは形も機能も変わり、電話は一人一個の携帯電話、スマホになりました。

電話機が世の中を激変させたのです。

「電話が写真の機能を持つようになった。いや、写真機で電話が出来るようになった」。村上春樹の騎士団長殺しという小説の中にある一行です。

スマホという「怪物」が世の中に何をもたらしているのか。
人間性を剥奪する行為に大いに貢献しているような。

SNSという「サイト」は9つもあるそうです。
フェイスブックもインスタも「写真」がなければ意味を持たないような気風。

「個」をさらけだすSNSへの投稿。

プライバシーなるものとSNSは「VS」なのか「WITH」なのか。

アメリカの大統領は常にツイッターなるもので私見を打ち込んでいます。

大方の病院の医師の診察室にはパソコンが常備されています。
レントゲン写真は現像などという手法では無く、撮影すれば瞬時に医師の前のパソコンに画像が届きます。

診療室で医師がパソコンを見る時間と、パソコンと向かい合っている時間と患者の顔を見る時間とどっちが多いか。

スマホの功罪――。
それを持っていれば電話も出来る、メールも出来る、写真も撮れる、さまざまな情報にも接することが出来る。

かたや、ながらスマホは事故を生み、イヤホンを通じて大音量の音楽が頭脳に突き刺さる。スマホ依存症という病名も生まれた。
人間関係がスマホを介在してのみ存在し得る・・・。

そしてスマホは5Gの時代になるそうです。第5世代。スピードが今の何百倍にもなるとか。

そんなにスピードを求めて何が得られるのか。
遺伝子のゲノム編集も進化するそうです。

科学技術の進化は止まるところをしりません。
今年を変化の年とするならば一言。「立ち止まる」ということではないかと。
世の中の流れに無条件で身を置くことでは無いのだと。

「立ち止まる」という詩がある。福島の詩人長田弘が書いたもの。

立ち止まる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。

「木のことば、水のことば、
 雲のことばが聴こえますか?
「石のことば、雨のことば、
 草のことばを話せますか?

立ち止まらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。


 「人がマインドコントロールを受けやすいのは、情報が過剰に与えられている状態か、極度に不足している状態だ」と言った人がいる。

“スマホの正体”を言った言葉のように思えて・・・。

きょうは11日。あの時スマホが果たした「功罪」。いや、スマホだけではない「ネット」。それを考える日。

“「その日」のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う。”

青森県の16歳の女子高生の言葉に頭を垂れるのです。
この高校生の60年後はどうなっているのだろうとも。

2018年1月5日金曜日

「CMは文化だ」と言ってはきたが・・・

またテレビについて書きます。
年末・年始の大型特番もそろそろ終わり。レギュラー編成となり落ちつきを取り戻したようです。面白いか、つまらないか、くだらないかは別にして。

テレビ業界に「引っ張る」という言葉があります。
たとえばスポーツ中継、中継録画。競技は1時間半でも番組は3時間です。
VTRを多用し、それも何回も繰り返し番組に仕立てていく。

そこのCM枠が上手く織り込まれる。CMの間にチャンネルを、チャンネルという言葉もある意味“死語”です、もうチャンネルと言う装置はテレビには付いていないのですから。リモコンボタンだけですから。それはさて置き、チャンネルを切り替えられないように、盛り上がった場面でCM入れて待たす。
ドラマでもこの手法は当たり前です。次の興味ある部分に行く前にCMを入れる。

「う~ん、引っ張るな~」が感想です。

言わずもがな民放テレビはCMという広告収入が「売上」のほとんどを占めています。いわずもがな視聴率の悪い番組にはスポンサーがつきにくい。
CM枠を自社の番組の番宣にあてる。
CMは無いけどNHKの番宣は執拗です。しかも番宣番組と思われるものを恥じらいも無く流し、たとえば大河ドラマや連ドラの出演者を他の自社番組の中にどんどん投入する。

CMは文化であり、世相を的確にとらえた内容がかつては多数みられました。
「オ~モウレツ」から「24時間働けますか」。それが「モーレツからビュティフルへ」となる。

今のCMは総じて五月蠅いです。
車のCMはちょっと前まではスピードをうたっていました。今の車のCMは「止まる車」です。事故防止ということで、運転がやさしいということで。

警察庁の発表では交通事故死は大幅に減少しているということです。
車の“性能”が強化される以前の統計です。

車と言えば「3・11」直後、CMが「再開」されてからしばらく経ってトヨタの「ReBORN 」というCMは秀逸でした。キムタクとビートたけし。

東北道を北上し福島はじめ東北をたどる。信長や秀吉らも登場させ。いろいろなタレントを使い。
強烈なメッセージ性が込められていました。被災地への愛が感じられました。

「3・11」は今やCMの世界からも忘れ去られました。

豊かで子贅沢な世界がCMを占拠しています。化粧品と健康食品、くすり。
メッセージはおおよそ存在していません。
それが今のこの国の「文化」ということなのでしょうか。

テレビは2兆円産業といわれていました。広告費のことです。
いまは1兆8千億くらいにさがっています。
ネットにCMがシフトしているのか。

“茶の間”のテレビはついている。その前で若者はスマホをいじっている。新たな「ながら族」。スマホからも広告は流れています。

分岐点の一つを見る思いです。

2018年1月1日月曜日

年末年始テレビ考

明けましておめでとうございます。と通り一遍の“言葉”にて。

年始のお目汚しとして「テレビ」について書きます。

時代の“還暦”、60年前の1958年、昭和33年。テレビの契約件数が100万件を越え、東京タワーがテレビ塔として完成した年でした。たしかNHK,NTV,TBS、CXは開局しており今のテレビ朝日が開局を目前に控えている時でした。

テレビはかつてラジオが箪笥の上に鎮座していたように、家族が集まる「茶の間」に存在しました。

テレビとお茶の間、いまもこの表現が使われています。密接不可離の関係にあるとして。茶の間の娯楽、それがテレビと言うものの位置づけでした。
外国のテレビ映画が時代を作っていきました。

今、「お茶の間」というものは存在しないと思います。丸い卓袱台を一家全員で囲む。そんな光景は無いにも関わらず、未だにテレビには「お茶の間」という肩書が付けられています。

その表現の不可思議さが、今のテレビそのものの不可思議さでもあるのです。

一億総白痴化。大宅壮一が喝破した見方は今でも通用するようです。

受像機は四角い箱から横長になり、カラー化され、ハイビジョンとなり、今や4Kとか8Kとか登場します。より高精細、高画質のものとなるようです。
音質も優れたものになりました。
アナログ放送がデジタル放送になった。国策で。完全デジタル化された時、ネットが“相乗り”し、放送と通信の融合と言われました。
5,1サラウンドなるスピーカーが開発され、画面が横長になり大きさを増しました。液晶画面が出来、薄型になりました。
5,1サラウンドスピーカーシステムは数年で姿を消しました。

余談のようですが、原発事故の後作られた多くの仮設住宅、その4畳半の部屋には全く不釣り合いな液晶大型テレビが東電によって”配布“されました。
することが無くなったお年寄りは目の前にあるテレビの画面を日がな見入っていました。

受像機が進化するとともに、内容も進化したでしょうか。答えは否です。
娯楽であったテレビは、報道機関としての使命を持つようになった。
マスコミというカテゴリーの中に入った。
情報番組なるものも出来上って行った。

最近の一例。連日無言の沈黙を守る貴乃花に突き出されるマイクを怒声は何を意味しているのか。
公道を占拠しているマスコミに近隣の住民は迷惑を蒙っていることを彼らの思考は及ばない。

震災報道が一段落したあと、テレビは震災前の「かたち」に戻った。
震災を経験して、テレビの在り方を考え直そうという人達が少人数はいたものの・・・。

元テレビ屋が今のテレビを慨嘆する。滑稽なことだが。

テレビは視聴者のことをどれだけ考えているのか。視聴率という数字にだけ関心があるのでしょう。
視聴者、つまり一般市民がもとめているものを伝えているのか、放送しているのか。自分たちがこれがニュースだと思い込んでいる物を押し付けてはいないのか。

政治の有り様と同じじゃないですか。政治家が思い込んでいる政治と国民が求めている政治とには大きなかい離がある。
政治とテレビは同じ立ち位置なのではないでしょうか。

年末・年始、4月と10月の改編期、テレビはやたらと長時間の特別番組を流します。
芸能人というかタレントというか、アナウンサーも交じってただただうるさい。
意味なく笑い転げてる。彼らの笑いは視聴者の元には響かない。

長時間の特別番組の中でニュースは消し去られている。正月だって考えねばならない、知らなければならないニュースはあるはずなのに。
知りたいことにテレビは応えていてくれていない。

バラエティー番組なるものの中では、多分番組収録後は捨てられるであろう豪華なおせち料理がスタジオに並べられている。
おせち料理どころか日々の食い物に事欠いている人も居る。
その人たちは特別の少数だ。
しかし、そんな少数に人たちの年末年始の実相を伝えることにテレビの存在意義があるのだと思うのですが。

科学技術の濃厚な進歩、それに反比例するテレビ人の思考の希薄さ。
そして映像を潰す字幕スーパーの多様。

テレビがつまらない、テレビはおかしい、テレビ死ね!
去年話題になった一市民の“叫び”を真似てみました。

我が家のテレビは消えています。年賀状に見入っていました。旧友、知友と”会話“していました。

つまらぬ年頭の「所感」。
嫌がらずに今年もお付き合いください。

「不幸な国を生きる者」として

国連の「世界幸福度報告書2018」によれば、日本のそれは54位だという。去年は51位。幸福度なるものが年々下がってきているらしい。 第1位はフィンランドだ。 幸福度とは「一人あたりのGDP・社会支援・健康余命・社会の自由度と寛大さ・汚職の頻度」などについて分析したものだ。 ...