ツイッターでこんなやり取りがあった。
原発事故後の双葉や富岡、いわき、そして飯舘。そこを記録し、メッセージを発したドキュメンタリー映画「無人地帯」。
その映画監督がリツイートしていた。去年のからから亭日乗を。書いた本人は忘れているのに。よくもまあ、そんな“古い”記事を引っ張り出してきてくれたもんだと。
それを「他人の手を借りて」読み返してみた。タイトルは「テレビの在り方~無人地帯にからめて~」。
去年の8月29日に書いたもの。次作というか続編を作ろうとしていた彼が郡山にロケに来た。会ってしばらく話をした。彼に同行していたカメラマンも交えて。
彼に問いたかったことがあった。「なぜ映画の中に死者が、死体が描かれていないのか」ということを。
彼は、カメラマンと一緒に答えた。「事故の40日後、そこは無人地帯であったが、死者の姿はどこにもなかった。見つけられなかた。もし、その光景に出合っていたら撮った。そしてそれを使った」と。
原発事故の現場ではなく、津波で1万5千人以上の人が亡くなっている。いち早く現場に行った報道カメラマンは、遺体に遭遇し、映像の片隅にでもそれはあった筈だ。
表に出された報道の中には、それらは一切無い。死者の映像。3・11だけでなく、たとえばシリアでもアフガニスタンでも、近々のことでいえば、ギリシャでもトルコでも「死者」が出ている。それらは数字としてしか伝えられない。
報道は、新聞でも、テレビでも、その「倫理基準」を守っている。しかし・・・。
そこにある“疑問”。それを書いていた。その日のブログに。たぶん所用があって東京に行ったからだろうか。
東京の知人が言った。「人々はあまり、というかほとんど、3・11のことは口にしていませんよ、今は」と。
津波で流されていく街の映像は見た。だれも、そこに存在していた筈の死者は見ていない。見ないものは忘れる。
「見せるべきものは見せる。伝える」。その“覚悟”がテレビ、新聞にあったのかどうか。もちろん、さまざまな議論があることは承知の上で・・・。
そんなその日のブログだった。1945年の大空襲。逃げまどう4歳の少年は多くの焼死体を見た。その真横にもいた瞬間もある。その記憶は時たま、なまなましく蘇る。普通の民間人が突如焼死体に化した戦争。戦争というものに対しての僕の源体験はいまだに僕の中に脈打っている。それを体験していてよかったと今も思っている。
監督のリツィート後、しばらく“会話”を交わした。なぜ今リツートしたのか。
彼は書いてよこした。
「昨日もつい、“東京にとって震災はグロテスクなエンタテインメントでしかなかった”と言ってしまいました… 。でもそうとしか見えないし」と。
2月くらい前に書いた。毎日新聞のカメラマンの言。東京に戻るたびに“うしおめたさ”を覚えながら、僕はそこで仕事をしていると。
昨日の全国紙の福島版。福島市にあるフォーラムという“良質な映画”を上映している映画館の経営者,阿部さんがこんな投稿を寄せていた。
「2年前の6月、映画の試写会で原発事故のあとに初めて銀座を訪れました。節電していたから街は暗かった。東京にずっと住む映画会社の社員は“繁栄を誇示するギラギラした電飾こそやりすぎ。これでいい”と言っていました。でも2か月後に訪れると、明るさは戻っていました。
あの事故で日本の社会システムの危うさを多くの人が実感した。でも、経済成長の御旗の下で、街が必要以上に明るいことへの違和感はかき消されしまった。原発を輸出すらしてしまう。私たちは日本の問題点に気づいたけれど、自分たちの世代では変えられないことに気づきました」。
東京という大都会への違和感。そして、どこかにある憧れ。ずっと東北人が抱いてきた感情。
もし、ボクが、東京にいたら、東京に住み続けていたら、「3・11」に対する受け止め方も違っていただろう。原発事故に対しても。普通の“東京人”が、今持っている感覚と大同小異だったかもしれない。
故郷、東京を悪しざまに言われるのは嫌だ。終戦後の焼野原から始まって、食べることにも事欠いていた日々。青春や人生の大半が刻まれている東京。
だから、だからこそ、この地に今、住み着き、あの日を体験し、それ以降を体験し、この地で語り続けるしかないのだと・・・。
デジタル化の結果だろうか。テレビの画面は、たしかに「ギラギラした電飾」のようだ。嫌悪感さえも思えるくらいに。